2022年3月24日木曜日

菅谷富夫(大阪中之島美術館館長)    ・【私のアート交遊録】水の都からアート発信

 菅谷富夫(大阪中之島美術館館長)    ・【私のアート交遊録】水の都からアート発信

大阪中之島美術館は2月2日、開館しました。  1983年の構想発表からおよそ40年、1990年の美術館準備室の設置から30年あまり、バブル時代に産声を上げその後の大きく厳しい社会変化を乗り越えて開館しました。  そのコレクションは19世紀後半から今日に至る日本と世界の優れた美術とデザインを核としながら、地元大阪で繰り広げられた豊かな芸術活動にも目を向け、その数は6000点を越えています。  大阪の経済と文化を支えはぐくんできた中之島の新しいシンボルとして誕生した大阪中之島美術館について、準備室の時代からかかわってこられた菅谷さんに伺いました。

4月9日からモディリアーニ特別展を行います。  大阪は2025年に大阪関西万博が開催されるのでそれに向けて、設計図を作って動き出しています。   回りが高層ビルがあるので、美術館だと主張するために外観は黒になっています。    1,2階はガラスで3,4,5階は黒い壁になっていて宙に浮いているような感じです。   4,5階が展示室になっています。 5階は天井まで6mあって大きな作品も飾れます。   大阪の出身の作品が多く所蔵しています。   4,5階で3000平米超える展示室がありますが、出来るだけたくさん展示しようといことで400点展示します。  一般的には120,30店程度だと思いますが。  

山本發次郎さんが戦前から戦後にかけて収集した作品があります。  1983年にその作品を大阪市に寄贈しました。  それがきっかけになり美術館を作ろうという事になりました。そのコレクションの中には30数点の佐伯祐三の作品が含まれています。  「郵便配達夫」なども展示されます。   大阪の美術館として特徴をどう出そうかいう事で検討して、近代デザインをやったらどうかという事になりました。   準備室が生まれたのが1990年です。  バブル期でおおきな美術館を作ろうという考えがありましたが、1990年代後半になると、大阪市の財政事情も厳しくなり、活動が停滞しました。  その間も展覧会場を借りて展示活動などはしてきました。   大きく言うと3度目のプランが2014年にできました。   

経営方式ではPFIPrivate Finance Initiative)方式で民間企業に運営をお願いする方式です。   柔軟なやり方で運営します。   赤字を出した場合はそのまま背負って翌年に持ち越します。  展覧会をする側の責任とかが明瞭になりますし、効率的にもしなければいけません。   大阪で活動した作家、大阪をテーマにした作品、そういった作品を吸収して、展示することも重要な事です。   吉原治良をはじめ、世界的に評価をされてきている。  美術大学を出ないで活躍してきているのが、伝統として江戸時代から大阪ではあります。   そういったことを知っていただくことは、大阪の美術館がやって行かなければいけない役割かなと思います。  

私は千葉県の出身です。  大学は東京でよく美術館に通いました。  気にいった絵があってその印刷物を買って家に飾ったんですが、モディリアーニの絵でした。   卒業後デザインを中心とした編集の仕事をして、それがきっかけで滋賀県の信楽で現代陶芸の美術館を作るという話があり行きました。  大阪で美術館を作るという話をいただいて、1992年に大阪へ行きました。  準備室が出来て2年後でした。  それから30年経ちました。

大阪に行くならあの美術館だねと言われるようにしていきたいと思っています。   プラットホーム的な美術館に成れたらいいなあと思います。    お薦めの一点としては1913年に描かれた大阪の女性画家、島成園の「祭りのよそおい」、店先の縁台に、晴れ着を着飾った三人の少女が座っている。  右端には立った少女が一人。 右端に立つ少女は着物も粗末で、裕福な少女たちをジッと見つめ、それも横向きで目しか描かれていない。  この絵のテーマは、子どもの世界に投影された大人社会の格差、残酷な現実社会の姿です。