2018年12月8日土曜日

プラユキ・ナラテボー(タイ・スカトー寺副住職)・"今ここ"に気づく

プラユキ・ナラテボー(タイ・スカトー寺副住職)・"今ここ"に気づく
56歳、プラユキさんはタイの北東部、チャイヤプーム県にあるスカトー寺で副住職を務める日本人の僧侶です。
30年前に大学を卒業後、タイで出家しました。
プラユキさんの元には、今不安や悩みを抱えた数多くの日本人が訪れます。
人々は今どんな悩みを抱え、その悩みにどう向き合うのかお聞きしました。

スカトー寺にはこれまで2000人以上の日本人が訪れました。
人間関係が大きいです、親子関係、夫婦関係など、ラインとかフェースブックなどを通じての苦しみなどもあります。
自己否定につながり、それが自分等は生きてる価値がないというような感じになってしまったりします。
先ず安心して貰う、自分にも居場所があったんだなと、自分らしくあっていいんだという、その辺の安心感が起こると非常に楽になっていきます。
次に問いかけて行く、虐げられてきたとか、表面では怒りですが、その奥にはこうあってほしいというそのような気持ちがあり、それが叶わなくてて落胆して、叫びが怒りになったりしている。
一緒にどうしたら実現できるか、一緒に考えてみようという感じです。
あるがままの感情を先ずは認めて行く、というところから始まります。
苦しみには原因がある、原因を取り除いて、取り除ければ苦しみからの開放がある。
無明、見ていない、はっきり判っていないから、闇雲に動いて行ってしまう。
欲が起こったり、怒りも起こったり苦しみにはまってゆく。
無明を消して言ったら、誰でもが苦しみから解放される。

仏教への影響については、一番のベースは母親でした。
お経を読んだり浄土宗の保育園に勤めたり、ボランティアなどをするなど、後姿を見てきて、段々と自分も影響を受けてきたと思います。
高校時代読書が好きで影響を受けたのが宮沢賢治で、「世界全体が幸せにならないと個人の幸せが無い」というフレーズに直観的に「そうだよ」と感じてしまいました。
進学先も哲学科を選びました。
アジア、アフリカ、難民問題、飢餓の問題を考えたり、ユニセフの募金活動に参加して呼びかけたり、NGOのボランティア活動などをしました。
闇雲にやればやるほど疲れてしまったりして、無力感を感じたりしました。
タイの農村地域に2週間滞在するワークショップへの参加がありました。
水道、ガス、電気が無かった地域だった。
そこでの手伝いが大きな体験でした。
ものがあれば幸せになれるというふうに感じていたが、一緒に生活していて村人たちの方が幸せそうにしているし、子供達も目を輝かして行き来している姿を見て、幸せはものとかではなくて、心が関係しているのかなあという体験でした。
自然と共存している感じでした。
もう一つは仏教だと思いました、タイでは95%仏教の信仰があります。
そこには宮沢賢治の思いを実践する姿がありました。

大学卒業後、25歳の時に小さな村のスカトー寺で出家しました。
朝3時~3時半に起きて、4時にはみんなと一緒に読経をします。
先生の説法とか瞑想をして5時過ぎまで行います。
その後托鉢に出かけます、5kmぐらい歩きます。
7時に戻ってきて、食事をします。
夜6時ぐらいからもう一度読経して説法を聞いて、瞑想したりします。
日中は全部瞑想していてもOKです。
瞑想中に蚊が飛び交ったりしましたが、かゆみ痛みがきて、感じているうちにそれを乗り越えると集中する感じになれたりしました。
蚊に献血しているような感じで、或る種の母親疑似体験をしたような感じになりました。
しかし外界からの騒音などに対して悩むようになりました。
スカトー寺の住職のルアンポー・カムキアン師はタイでは優れた瞑想の指導者として知られていました。
「どういう心の現象であっても、あるがままに気付いて見ることだ」と言われて、瞑想にも色々種類があることを知ることができました。
目をつむるのではなくて、目を開けたまま手を動かす、手動瞑想と言っています。
手は昨日の手でもなく、明日の手でもない、ここにあるもの。
現実的な手をハッと気づくと、妄想、雑念が消えてゆくというようなところがあります。
それを中心に教えていただきました。

集中する心をコントロールをしていって、心の状態を変えて行くという、集中瞑想的な事を目指すが、こっちはそれを目指していない、コントロールを入れないで、ただ起こってくるがままに、ただちゃんと気付いて観察して理解して行こうという、そういったスタイルの瞑想法です。
気付き→今ここにある現象、あるがままに淡々と明晰に見て行こうという感じです。
「過ぎ去れるを追うことなかれ、いまだ来たらざるを想うことなかれ、過去そはすでに過ぎ去りたり、未来そはいまだいたらざるなり、さればただ現在するところのものをそのところにおいてよく観察すべし。
揺らぐことなく動ずることなくそを見極め、そを実践すべし。
ただ今日まさになすべきことを熱心になせ。」

手動瞑想
背筋を正して、手を膝に置く、右手を立てる、上に持って行く、お腹にもって行く。
左手を立てる、上の持って行く、お腹にもって行く。
右手を胸に持って行く、外側に伸ばしてゆく、下ろします、伏せます。
左手も同様に胸に持って行く、外側に伸ばす、下ろします、伏せます。
これが一サイクルです。

気づきのエッセンス
今自分の膝の上に手が立っているなと確認する事、上に持ってきたらここにあると気付く事。
自分で確認する感じ。
一コマ一コマを位置確認する感じ。
記憶が蘇って心の中でおしゃべりが始まるが、それは雑念、妄想と言っているが、
気づきの瞑想コンセプトだと、それもある種の色付けになってしまう、あるがままにという事が凄く大事で、それが起こった時にはたぶんそれは思考は思考として、気分は気分として、雑念だと思わないで(雑念を増幅させない)、受容してあげようという感じです。
このプロセスが大事です。

暴言を吐くとか暴力になるとか、心が止まらずに発展してしまうが、知らずに無意識にやってしまっていることを、じゃあもっといい選択があるという事を見付けられる、心を暴走させない。
怒りにはまり込んだら見えないので、怒っていることが見えて来ると、その奥の気持ちに目が行くことが可能になって来る。
怒りの原因が見えるようになって来る、その奥には願いがあるという事が見えて来るようになって、願いを叶え行くにはどうやったらどう実現してゆくのか、吟味できるようになる。
安らいでいる人が、イライラしている人に対して安らぎを与えられて、波及効果が更に広がって行く。