高島悦子 ・"大連、私の戦争記憶
中国大連で生まれ育ち、今年87歳。
昭和18年4月大連羽衣高等女学校に入学、12歳でした。
戦争は日に日に厳しくなり、敵の言葉という事で、英語の授業は無くなります。
授業時間も削られ、モールス信号や、小銃の扱いなどの軍事訓練、つるはしを振り上げ穴を掘りモッコ担ぎの労働など、痩せて小柄な少女には大変つらいものだと言います。
8月15日に終戦、社会秩序は大混乱、ソ連軍兵士の乱入で、女性が襲われ乱暴狼藉の状態の中、高島さんのお母さんはいつでも子供達と死ぬ覚悟で、青酸カリを身に付けていたと言います。
そして抑留生活の1年半は生きるのに必死、虚弱体質のうえ栄養失調で高島さんはとてつもない不安の中にいたと言います。
昭和25年2月厳しい寒さの中、引き揚げ船が大連の港を離れた時、高島さんの耳に強く残るのは雪交じりの甲板で、男たちの血を吐くような怒号と罵声でした。
多感な少女時代を戦争に巻き込まれた高島さんは、悪魔の様な戦争体験を伝え残す義務があると、その思いを本にまとめました。
戦争体験も薄れる一方で、この本(「あれから70年」)を3年前に書いて良かったと思います。
女学校では同級生は250名ぐらいいました。
小学校は6年間組み変えなしでした。
大連聖徳小学校でしたが、今年同級生は年に4回集まりました(7、8人)が、人数は段々減ってきています。
「配られし隣組なる寄合に青酸カリなる薬包のあり」高島悦子
母は万一の時にはこれで命を捨てるんだと言っていました。
8月15日の記憶は空は青く物凄く暑い日でした。
もっこ、ツルハシなどで海岸線に沿って戦車壕の穴を掘るので、おなかがぺこぺこになってしまうので梅干し弁当と焼きおにぎり二つ持って行って、焼きおにぎりは3時に食べました。
当時みんな栄養失調でした。
秘録大東亜戦争満州編(昭和28年)
「8月21日午前10時、ソ連軍の進駐部隊が大連駅を出発して町を行進してきた。
戦争が終わった平和的な進駐とは見えず、戦場に突入してくるような勢いだった。」
私は3階の窓から隠れて見ていました。
戦車がものすごい音でした。
一番初めに入ってきたのは、頭は坊主で刺青をしていて、囚人部隊だったと言われています。
日本人街に入ってきましたが、当時12歳だったのではっきりしたことは判らなかったが、友達のお母さんが「大連物語」という一冊の本を出して、それが終戦直後の大連の事を知るのに大変参考になりました。
8月15日で世の中がひっくり返ってしまってとにかく怖いという雰囲気でした。
「玄関のベルに茶の間をたちし娘は野獣の兵に連れ去られゆく」高島悦子
その女性は19歳の女性で妹が私と同級生でした。
翌日血みどろの状態で帰ってきて亡くなってしまった。
大連はヨーロッパ風の街でした。
「満州唱歌」がありました。(高島悦子さんが歌う。)
冬は氷点下10度位になります。
小学校6年の時には遠足で旅順まで45km歩いて行きました。
匍匐(ほふく)訓練(伏せた状態で移動すること)などもやらされました。
木銃を持って、救急看護品を必ず持って通学していました。(終戦の年、女学校3年生の時)
コロ島には引き揚げ船が来るが、大連港には1年半全然来ませんでした。
帰れるのか疑心暗鬼で孤独にさい悩まされました。
「非民かと疑心暗鬼の飛び交えり引き揚げ船は姿を見せず」高島悦子
食べるものは露天に豊富にありましたが、職場を失った日本人が多いから自分の家財道具、着物を売って購入していました。
女学校1年生の1月ごろに男の国語の先生が突然姿を消しましたが、隠密召集だったようです。(戦争末期には兵隊不足で40代の男性が招集されるようになる。)
先生がお亡くなる前に、原稿を戦後史の一端だと言って私にことづけてくれました。
それによるとミズリー号で条約が結ばれたが、まだ上官の命令で先生たちは蒋介石の国民軍と一緒に八路軍と戦っていたという事が書いてありました。
「あれから70年」を書き残してよかったと思いました。
大連から戻ってきて、ずっと後になって中学から基礎の勉強をやり直したいと相談に行ったら、卒業終了証を持っていると、駄目だと言われたが、定時性の高校からでないと駄目だと言われて、大阪市立都島工業高等学校で勉強のスタートができました。(平成9年卒業)
戦争の話などできるような状況ではなかったが、知って欲しいと思いました。
引き揚げ船の中でも一騒動ありましたが、船長が厳しく言っておさまりました。
船中で病気で亡くなると海に捨てるしかなかった。
佐世保に着くころ、船上からみんなで懐かしく眺めたことは思い出します。
広島の山国の田舎の駅に着いて、祖母が待っていてくれて、よもぎ餅を食べて本当においしかったです、生涯忘れられない味です。