2018年12月20日木曜日

宇野亜喜良(イラストレーター)     ・不滅の女性美を描き続けて

宇野亜喜良(イラストレーター)     ・不滅の女性美を描き続けて
名古屋市出身84歳、横尾忠則さんと共に日本を代表するイラストレーターの一人です。
確かな描写力とデザイン力、幻想的でロマンチックな画風によって企業のポスタ-や化粧品の広告、女性雑誌の表紙、本の挿絵、絵本、舞台美術など膨大な仕事を手掛けて来ました。
おしゃれで抒情的で官能的でもある少女、女性像は世代を越えたファンを持っています。
1999年に紫綬褒章、2010年には旭日小綬章を受賞されています。
いままでの道のりとその独自の小女像、女性像、イラストレーションの面白さなどについて伺います。

銀座のデパートで個展が開かれていましたが、年に1本はやっています。
ダビンチはサウスポーで鏡文字がかけるが、ぼくもそういう事が出来てサイン会でもやっています。
サイン会は2時間ぐらいありました。
ファンは年輩から若い人までいて、それは嬉しいです。
今の人は漫画チックな絵で漱石、太宰を感じたりとかなんでしょうね。
出版物の仕事は減ってきました。
発想をみずみずしくということは、僕の頭に中ではないですね。
あまり考えないようにして女の子を描いていますが、今の風俗をまとった若い女の子を描くというのは全然なくて、植物と、動物は一緒になりえないが、絵の上では可能だと非現実的な事が絵画だと出来る訳です。
1960年に日本宣伝美術会で賞を貰った作品が繊維の作品を描いたんですが、目覚めたのはその頃だと思います。

父は室内装飾の仕事をしていました。
父と一緒に写生に行って、描いたりしていました。
学校でポスター書くことがありましたが、みんな文字をまず書いて隙間に絵を描いていましたが、私は書きたい絵をて描いて、油絵具を使って上塗りできるので、レイアウトとか文字の事とか考えないで描くことができました。
絵を描くことは好きでした。
中学のころは絵画研究所に行きました。
その後グラフィックデザイナーに入って行きました。
2,3回賞を貰ったりしてデザイナーの方が面白いと思いました。
絵画では考え方が無いといけないと思ったんですが、グラフィックデザインだったら、依頼を受けたものをどう構成していくかとか、一種の技術なので技術家になった方が面白いと思いました。
母の経営する喫茶店の壁面に壁画を描いたりしたのを、新聞社が取り上げてくれたりしました。
高校卒業後上京しました。
高校の図案科の先生が紹介してくれて、1年後に社員になりました。
仕事の内容は新聞広告、パッケージング等をやっていました。
1960年日本デザインセンターに入りました。
原弘さん(出版物のデザインが多いデザイナー)、亀倉雄策さん(東京オリンピックのポスターを作った人)、山城隆一さん(おキャれなデザインをする人)の3人が創立者でした。
出来たその年に雇ってもらいました。
その一年後に横尾忠則が入ってきました。
1964年に原田維夫と3人で辞めました。
3人で仕事をやっていましたが、原田維夫は仕事が来ていましたが、私たちはあまり仕事がありませんでした。
寺山修司さんとの出会いがあり、寺山さんの舞台、宣伝美術を手がけるなどしました。
「ひとりぼっちのあなたに」というエッセーを寺山修司さんが出しましたが、ロマンチックでアングラをする人とは思えない。
装丁と挿絵を担当することになり、この時に瞳が大きくあごの小さな少女が出て来る。

少女ものには憧れていたものがあって、少女はこういうものだと思って雑誌で覚えて行った事があると思います。
無意識に、皆さん、時代によって変容してゆく女性像でしょうね。
私の場合はあいまいで、特定な年代層とか描かないですね。(国籍もはっきりしないような)
寺山修司さんの「天井桟敷」に横尾などとポスターの制作をする。
ポスターが芝居の内容に影響を与えることもありました。
おっぱいからミルクを絞っているヌードの女性を描いたら、寺山さんが気に入ってくれて、女優にやらせたこともあります。
寺山修司さんとの付き合いは1970年代の半ばのころまでだったと思います。
主観、自分の情感を出さないで、生活して行った方がいいのかなという時代があって、2000年に入って又60年代の女の子を又描きたいと思いましたが、情感とか何かによるデフォルメが描けなくなっていて、ちょっと焦りましたが、今はその時代とは違うけれど女の子が描けるようにはなりました。
1980年代、時代小説の挿絵も描いていました。
木枯らし紋次郎が最初の時代ものでした。
10年間ぐらい、ダンスの組織があってその舞台装置を頼まれて、そのうちもう少し面白くしたいと思って、構成、台本等を手掛けましたが、面白かったです。

イラストレーションの面白さは、計算しないでものが出来ることとか、編集の担当者が面白ければいいとか、人と話をしたりして、人と話す事が好きだなあと最近思っています。
木村恒久さんが私のことを幇間の様だと言ってくれるが、その幇間の比喩が面白いと思いました。
ここの処4回デパートで展覧会をやっていますが、60年代後半から70年代前半かけての頃の事が又求められているような思いがあります。