2018年12月23日日曜日

佐藤天彦(将棋棋士)           ・【私のがむしゃら時代スペシャル】~名人への道のり(後半)

佐藤天彦(将棋棋士)・【私のがむしゃら時代スペシャル】~名人への道のり 後半
小学5年正の時に2度目の挑戦でプロ棋士養成機関、奨励会に入会、プロになれるのは1割から2割、厳しい年齢制限のあるシビアーな戦いの中で、プロ一歩手前の3段まで上がったのものの、最後の関門をなかなか突破できず、もがいていた高校時代迄ういかがいました。
その後佐藤さんはどのように名人位への道を歩んだのか、壁が立ちはだかるたびにどのように乗り越えていったのでしょうか、後半をお聞きください。

高校3年間のうちにプロになるという気持ちでやってきたので、高校生活も楽しみながらというふうに考えていましたが、叶わなかったということは大きな出来事でした。
実家に帰るのか、もう少し関東連に居させてもらえるのか、そういう事を話し合う会議もありました。
3段リーグを突破するには13,4勝すれば突破できるが、11、12勝どまりの時もありました。
26歳の誕生日迄に到達しないとプロに成れない、年齢制限もあります。
去る直前のその人の辛い雰囲気が醸し出されている時もありますので、独特の空気感があるので、こちらもより深刻な気持ちで対局するということはありました。
10人入ったとするとプロになるのは1,2名になります。
3段に行く前で退会する人も沢山います。
高校卒業してからは、後1年居させて欲しいいう事を親に話して約束しました。
26歳までしがみついてプロへ、という思いは無かったです。
仕送りは以前のようには貰えないという事で、将棋連盟の教室のお手伝いをさせてもらってアルバイトして将棋も自分なりに頑張りました。

次のリーグ戦でプロになる事が出来て、ホッとしました。
自分と同世代では私より先に行っていた人もいたので、遊んでいる暇はないと思って勉強をしっかり続けようと思いました。
C2,C1、B2,B1、Aと5つのクラスがあり、Aで勝って初めて名人に挑戦が出来る。
各クラスのリーグ戦が1年に一回行なれる訳です。
Aで勝って名人への挑戦が初めて出来る。
C級2組で4年ぐらいいましたので、3段リーグとC級2組で8年ぐらいいたことになります。
仲間が追い越して先に行くので焦る気持ちはあり、もしかしたら駄目かなと思ったりしました。
停滞している時期にピアノもやり、リフレッシュしたと思いました。
その頃から勝ち始める事が出来始めました。
C級2組を抜けてから割合と早い段階で、どのクラスも抜ける事が出来てAクラスまでたどり着けました。

2015年タイトル戦に挑戦、羽生さんとでしたが、2勝3敗で負けてしまいました。
棋王戦にも挑戦することになり、相手は渡辺さんでしたが、渡辺さんとは私が中学生渡辺さん高校生のころから親交がある方で、1勝3敗で破れてしまいました。
2016年 名人戦で羽生さんに挑戦、結果を出したいと思いました。
羽生さんは1995年に7冠を達成した人でした。
初戦は落してしまう。
2局目では2年ぐらいはやっていなかった、自分の好きな戦法(やぐら)をやって見ようと思いました。
逆転勝ちをすることが出来ました。
3,4,5局と3連勝して7番勝負を勝つことができました。
一人になって初めて実感がわいて来始めました。

名人位は400年の中で26名で、制度が変わって実力戦になってからは13人目です、それまでは世襲でした。
将棋を楽しみたいとか、タイトル戦のだいご味を味わいたいとか、自分自身が棋士を目指す上での基盤になっている大切な部分なので、自然体で持ったうえでやっていきたいと思っています。
自分らしさを失わない方が、いい結果が最終的にはなって来ると思います。
バランス型の将棋になっていると思います。
28歳史上4番目の若さで名人になり3連覇しています。
コンピューターが新しく示して来る価値観は、今までの人間の常識では計れないものがたくさんあり、それを取り入れ様とすると崩れてしまう。
そうすると判らなくなってしまうようなことがあります。
僕の場合は色々な物を取り入れたいと思っているので、先人達とコンピューターソフトが示す価値感も柔軟に取り入れて行きたいので、バランスとりなが取り入れて行きたいと思います。
今は戦国時代と言われています、7,8人にタイトルが分散している。
先のことはあんまり考えないが、30年後魅力的な面白い棋士でありたいと思います。
来年は名人防衛、と別のタイトルが欲しいです。