山田ルイ53世(お笑いコンビ 髭男爵)・【人権インタビューシリーズ】ひきこもりからのルネサンス
兵庫県出身、中学2年生の夏から6年間引きこもり生活を送りました。
内閣府に依ると山田さんのように学校、職場になじめず、自宅に半年以上閉じこもっている引きこもりの人は15歳~39歳までだけで推計54万人に昇ります。
山田さんはどんなきっかけで引きこもり生活が始まり、どの様にして現在まで生きてきたのか伺います。
本名は山田順三、1975年兵庫県三木市出身 43歳、1999年デビュー。
2006年お笑い番組の準決勝進出でデビュー。
2015年「ヒキコモリ漂流記」を出版。
「一発屋芸人列伝」が第24回編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズムの作品賞に選ばれる。
小さい頃は結構活発でやんちゃで、リーダー的な存在でした。
勉強もできた方でした。
名門の六甲中学校に進学する。
勉強、部活などにも頑張っていました。
通学は2時間かかって、寝るのが12時で起きるのが5時頃で結構ハードでした。
登校途中にお腹が痛くなり大便の方のそそうをしてしまいました。
汚れたズボンなどは洗って乾かしていたが、臭いが出てきて両隣が気が付いて、周りに広がって言った。
それがきっかけとなったのか、すぐに夏休みに入り学校には行かなくてもよくて、普段なら直ぐに片付けてしまう宿題もなぜか宿題にも手が付かず、夏休み明けの登校初日に学校には行けなくなってしまった。
しばらくしたら行こうと思っていたが、1日休むと1日分行きたくなくなり、どんどんと負債が溜まって行くような感じになり、なんとなく休んでいたら全然いけなくなってしまった。
それまで優等生的に生きてきたのに、親はパニックでした。
昼夜逆転生活になって行きました。
調子のいい時は昼間にパンツ一丁で屋根の上で日焼けしたりしていました。
小学生の時親から貰った天体望遠鏡で友達の登校風景などをみていたりしてました。
夜中に2,3時にジョギングすることはできたが、昼間は外を歩くことはできませんでした。
引きこもり始めて1年後ぐらいには町中が知っているような状況でした。
厄介なことに神童感がとろ火のようにあり、今は休んでいるがちょっとその気になれば以前のようになれると、それが心の安定を保っているような状況だったと思います。
虚無感にもとらわれました。
働かなくてはいけなくなって、近所のコンビニに行かざるを得なくなりました。
友人が見に来たりして、話しかけてきて、「勉強全部終わったからちょっとバイトしている。」と答えて、また完全に引きこもりました。
いまでもちょっと出無精的なことはあります。
引きこもりはだれでも起きる可能性はあると思う。
いつも真面目に頑張っている人はなっちゃう可能性があるかもしれない。
20歳手前まで引きこもっていました。
成人という言葉がパワーワードで、そこで焦りました。
なんとか勉強できるようになって愛媛大学法文学部に入学することになります。
とりあえず山から転げ落ちるのが止まったというような感じでした。
大学の1年先輩がお笑いをしたいという事で、先輩が付き合っていた女性が短大の文化祭の実行委員長をしていて、学園祭で披露できるという事で、私がネタを書くことになりました。
漫才をやったらめちゃくちゃ受けて、全国大会に出場しようということになり、相方が頭が真っ白になってしまい、台詞が全部飛んじゃって、恥ずかしい思いをしました。
帰りに先輩は他にやる事があると言いだして、裏切られた感じがしてその晩に一人でやる決心をして、大学を辞めて東京に行きました。
売れなかったらどうしようと、引きこもりの時と同じような感覚がありました。
ブレークした時には安心感がありました、引きこもりの脱出が出来たと感じました。
社会復帰できたなあと感じました。
自分の人生をリセットできるのは自分しかいないので、何回でもリセットしていいと思います。
リセットするということは今までの自分を全否定するのではなくて、あったことはあったこととして、受け止める。
引きこもった6年間をばねにしてというふうに思われるかもしれないが、引きこもった6年間は自分自身としては完全に無駄だったという思いはあります。
無駄があるのが罪悪だというふうな風潮が強すぎる気がして、しんどい思いがすると思う。