山田和夫(子ども食堂代表) ・妻のレシピが遺したもの
70歳、60歳になった時に経営していた会社を辞め、年金を元にゆったりとした生活を考えていました。
ところが妻の和子さんが病気になり闘病生活の末に亡くなりました。
和子さんが残したのは一枚のレシピでした。
自宅でパン屋を経営していた和子さんは、レシピにパンの作り方を書いて居ていました。
和夫さんはそのレシピを基にパンを焼き始め、ホームレスの人達に配るようになりました。
この活動がきっかけとなり、山田さんは子供たちの為に、自宅を開放して子供食堂も始めました。
妻和子さんが残したレシピがきっかけで、二つの社会的な活動を始めた山田さん、10年間の歩み、そしてその意味合いについて伺いました。
最初は1階の一部屋だけでやっていましたが他の部屋、2階にもということになり、私の居場所は寝室だけになりました。
これは自分の第二の人生なんだなあというふうに現実を受け止めています。
想像もしていなかった、片方の車輪がが亡くなってしまって、それを受け入れることが大変でした。
子供とのかかわり合いをするようなおもちゃの小売店に勤めました。
暫くして、ドイツの世界で一番大きい見本市がニュルンベルクでおこなわれるが、見学に行かせてもらいました。
小売店ではない方向に行きました。
鉄道模型コーナーがあり、トンネルを作っている会社があり、おじいさん二人で楽しそうにやっているんで、こんな形でおもちゃの産業に関われたら、小売店より楽しいのではないかと思って、小売店を辞めて始める事になりました。
当時は大手6社ががっちりと押さえていて、入って行く余地が無くて、スポーツとおもちゃの間のようなマーケット、スポーツ玩具は大手がやっていなくて始めました。
暫くして日本剣玉協会の人と知り合って、設計図があるのでそれに沿って作ってもらいたいという事で作り始めました。
左利き用にも変えられる、配慮がありました。
長年剣玉を作ってきてあきが来ていて、年金を貰って第二の人生に移っていいのかなと思って62歳の時に辞めました。
妻が子供の世話をしなくてもよくなってから、自宅でパンを焼いて玄関を改造してパンを売る商売を始めました。
これからといった矢先に妻が体調を悪くして、胃の内視鏡を見てもらったが問題が無かったが、エコー検査をしたらがんがあるという事で、すい臓がんと言われました。
進行は第4ステージで転移も見受けられるという事で吃驚しました。
違う病院にも行ったが診断は同じでした。
抗がん剤、手術、放射線治療があるが、転移もしているのでどれをやっても本人が苦しむだけだという事でもうなすすべもないという事で、民間療法でやって行くしかないという事で実行していました。
暫くして痛みが出てきて、緩和ケアの病院に入院することになりました。
一日だけ自宅に帰りたいと申し出をして、帰ってきて家にいたいということ家に留まるようにしました。
その後息を引き取ってしまいました。(告知から半年でした。)
音がするのでパン屋はやっていませんでしたが、亡くなる3週間前に私にパンを焼いてほしいと言ってきました。
池袋の路上生活者を支援する団体の方と知り合って、売れのこりのパンを寄付するという事を妻はやっていました。
毎週水曜日に夜回りする活動がありまして、おにぎりなどを配るのですが、寄付したパンも配って欲しいという事でパンの寄付もしていました。
私にもそのことをして欲しいという事を言ってきましたが、出来ないと言って断ったが、2日後にパンを焼くレシピを渡されました。
妻は天然酵母で焼いていて、その場合には2日ぐらいかかり、イーストで焼くと3,4時間で焼くことができるのでそれを手渡されました。
亡くなってから色々やることがあって忙しかったが、なんにもやる事が無くなったなあと思った時に、レシピを思いおこしました。
毎週水曜日に50個 、こつこつ作り始めましたが、硬かったです。(醗酵が足り無かった。)
自然醗酵のレシピだったが(夏場用)、始めたのが冬場で醗酵不足だったようで、ホイロ(醗酵容器)を使い始めてからは、自慢できるようなパンを作れるようになりました。
作って直ぐに手渡していました。(生活者を支援する団体を介して)
2010年1月から2011年3月の震災の時までは一人でやっていましたが、震災で気持ちが暗くなってパンを焼くのを辞めてしまいました。
7月ぐらいに団体の方から、私達も手伝いますからやりましょうと言うことで、一緒にやるようになりました。
50個焼いてましたが、焼く人達の報酬が無いので、年金生活では現金をわたすのがきついし、原料も費用がかかるので、その分を稼げばいいと思って働き始めました。
魚を三枚にする作業をすることになりました。
一緒に作業をする4人とは50個から100個を焼くことにして50個分はそれを分けるという事にしました。
子供の貧困問題の為にも手を貸してほしいという事を言われました。
子供に食の支援をすることになり、まず見学することになりました。
暖簾に子供食堂という文字が書かれており、それなら私にもできると思いました。
小さな食事会というイメージでしたが、保健所と相談して飲食の営業許可を申請しました。
条件をクリア―して始めました。
援軍も来てくれました。(10人ぐらい)
最初に来たのは、ほとんどが小学生で10名ぐらい来ました。
外国籍の子も来ていて、食事後にインドの子が歌を歌ってくれました。
紙芝居をやったらそのうちに、小学校の高学年の女の子が自作の紙芝居をつくってきたりしました。
滞在時間は1時間半で、食事が終わってもなかなか帰らなかったです。
行政も子供の貧困問題に何かできないかという事で豊島区から活動資金を援助するようになりました。(活動費の半額)
手伝ってくれる人は81歳が最高齢で、学生の参加も多いです。
親御さん併せて50人ぐらい、お手伝いが20人位なので一番多い時には70人位になります。
貧困という事でやってきましたが、子供食堂に参加されするということは、予定を立てないとなかなか来られない、口には出せないがそれぞれ荷物をしょっていると推測はしています。
妻と海外旅行とかを考えていたのが全然変わってしまって、周りから推されてこういう形になったというのが率直な気持ちです。
妻は社会と繋がりを持っていて、そのことを私にもしなさいと言っていたんですが、私としては全然考えていませんでしたが、パンを焼くことで、たった一りになってしまった私が社会と沢山の人と繋がって行っているんですが、意図したかどうか判りませんが、結果としてそうなりました。