2018年12月3日月曜日

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)    ・【近代日本150年 明治の群像】森鴎外 

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)   ・【近代日本150年 明治の群像】森鴎外 講談師 神田蘭

講談による紹介
森鴎外は1862年2月17日(文久2年1月19日) 石見国鹿足郡津和野町田村(現・島根県津和野町町田)生れ。  本名は森 林太郎
藩医家の嫡男として、幼い頃から論語や孟子、オランダ語などを学び、養老館では四書五経を復読した。
9歳の時に15歳の学力があったと言われる。
1872年(明治5年)10歳の時に廃藩置県となり、父と上京。
12歳の時に入校試問を受け、第一大学区医学校(現・東京大学医学部)予科に実年齢より2歳多く偽り、12歳で入学。
本科に進んで医者になる勉強をしていたが、文学に関心を持ち、漢詩・漢文に傾倒し、和歌を作っていた。
大学卒業後はドイツへ留学。
ドイツ留学時の恋愛が後の名作「舞姫」を生んだのです。

二葉亭四迷「浮雲」と並んで近代日本文学における目覚めた自我の新しい人間類型をうちだしたと評価されている。
小説家と医者の二足のわらじを履いて活躍して行く。
医者としては陸軍の軍医部長として日露戦争に出征し、40代でトップに上り詰める。
小説家としては数々の名作を生み出してゆく。
「阿部一族」「山椒大夫」「高瀬舟」等々。
森鴎外の、「最後の一句」「お上のことには間違いがございますまいから」と娘が言うがこれが、「最後の一句」の有名な台詞。
(「本当にあなたたちの裁定は正しいの?あなたたちは父親を処刑しようとしているけれど、その裁定に自信があるわけではないのでしょ?」ということでしょう。人が人の命を奪うのに、自信がある人なんていません。 彼らの事なかれ主義の「役人根性」をグサッと刺したものと思う。)
色んな意味が込められているような気がする。
大好きな食べ物はまんじゅう茶漬けとか。

代々津和野藩の典医を務める森家に生まれる。(40石位)
軍医のかたわら深夜3,4時には起きだして、それからが森鴎外の人生、二人分の人生を過ごす。
第一大学区医学校(現・東京大学医学部)予科に実年齢より2歳多く偽り、12歳で入学。
そうさせたのは親ではないか。
卒業時に8番であるために大学に残って研究者に残る道は閉ざされた。
親友の賀古鶴所(かこ・つるど)の勧めで東京陸軍病院に勤務することでドイツへの留学の道も開かれて来る。
1884年(明治17年)6月ドイツ帝国陸軍の衛生制度を調べるため、ドイツ留学を命じられた。
ライプツィヒ、ドレスデン、ミュンヘン、ベルリン等にいく。
ベルリンでは北里柴三郎とともにコッホに会いに行った。
ほぼ4年間ドイツに行っていた。
ライバルだった石黒忠悳氏は男爵になったが、森鴎外はなれなかった。
軍医はトップに行っても中将だった。
森鴎外は名誉ということに拘泥する訳では無かったと思う。
帰国直後、ドイツ人女性が来日して滞在一月ほどで離日する出来事があり、小説「舞姫」の素材の一つとなった。(女性は説得されて帰国する。)
作品で「エリス」という名前で登場するが、実際の名前は「エリーゼ」という。

1889年(明治22年)1月3日、『読売新聞』の付録に「小説論」を発表、外国文学などの翻訳を手始めに(「即興詩人」「ファウスト」など)熱心に評論的啓蒙活動を続けた。
「即興詩人」など訳が名作で原作を越えてしまったと言われる。
森鴎外は樋口一葉を見出した。(古文調の格闘高い文章)
森鴎外は歴史研究者になっても超一流の歴史研究者になっていたと思う。
晩年、史伝という分野を切り開いた、「渋江抽斎」が有名。
1918年(大正7年)12月、帝室博物館(現・東京国立博物館)総長兼図書頭に、翌年1月に帝室制度審議会御用掛に就任した。
1918年(大正7年)9月、帝国美術院(現・日本芸術院)初代院長に就任した。
「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」で始まる最後の遺言7月6日付け)が有名。
その遺言により墓には一切の栄誉と称号を排して「森林太郎ノ墓」とのみ刻された。(60歳)
(原敬も同様な事を言っている。)