五味太郎(絵本作家) ・みんな、人生楽しもうぜ! ~2回目
1945年東京生まれ73歳、工業デザイナーを経て28歳で絵本作家としてデビューされました。
『きんぎょがにげた』、『みんなうんち』、『さる・るるる』など、かくし絵や言葉遊びの要素のある本は特に人気があり、30年来読み繋げられるロングセラーも数多くあります。
先月は絵本の人をテーマに創作の舞台裏、そこに込めた思いを伺いました。
今月は子供をテーマに伺います。
五味太郎さんはこれまで絵本のほかに、「勉強しなければ大丈夫」、「大人問題」、「丈夫な頭と賢い身体になる」等の本を出版され、子育て、教育、子供と学校等についてご自身の思いを語っています。
「改訂版 勉強しなければ大丈夫」を今年出版。
子供とおとなの対立場面がめんどくさいと無意識に思っていたが、絵本を始めて最初にぶつかったのが、子供と大人ということでした。
子供の頃どうでしたかと質問を受けるが、子供をやった覚えが無いんですよ。
だから子供のつもりが無いんだよねと言うのが、前提になっていて、同時にそれぞれなんだよねと思うんです。
絵本は児童書と呼ばれていて、絵本と児童書は全然違うなと思うのが僕の結論です。
児童書は大人が子供に向かって目的を持って書く本だと思う。
簡単に言うと余計な御世話だと思う。
子供にやさしさとかを説くなという感じです。
子供時代、自転車は大人用しかなかったので三角乗りをしていたが、子供用は有難いようだけれども怪しい、ビジネスチャンスなんですね。
子供用に本を作って、ついでに子供を指導し、方向付けをして学ばせてというその位置にあるのが児童書と呼ばれているのが一般だと思う。
児童書の中に絵本っぽいものがあったから、絵本は児童書なんじゃないのかということになった。
今は学校に行ってない子はレイアウトしきれていない子で、アウトサイダーだから、子供は学校にレイアウトして、そのあとは家庭にレイアウトする。
そうじゃないものを真ん中(社会の中間層)は許されなくなった。
面倒を見なくてはいけないと真ん中は思いこむ、その方が真ん中の社会は運営がしやすい。
子供と老人はじゃまなんだよね、ということがどんどん進んで行ってしまった。
チルドレンズブックとフィクチャーブックの判らていない世界のころに入ったものだから、チルドレンズブックの一ジャンルだという形でいうと、打ち合わせなどでぎくしゃくする訳です。
子供達は僕の本に出会うと何を言ってるのか判らなくて、本だと思う様になる。
そうすると単純に信用されるようになる。
絵の場合は単純に自分で読むしかない、試験になじまない。
学校が整備されていないころ、選択肢だらけだったが、余りにも選択肢が無い。
学校に行くしかなくなった。
私は学校って先生の為にあるんだと気がつきました。
食い扶持があるから。
今人格まで、正しい人とか、正しい身体だとか、そこまで管理をするそのステムの中にいるしかない。
個性を伸ばすと言う事も言っているが、そこから脱却できない、次のビジョンが生れてこない。
子供達がハッピーではない、本当に気の毒だと思う。
子供達は体力がないから反乱できない。
生れて良かったなあって思ってほしいと思う。
下の娘は自分のペースが会って乱されるのが好きではない。
学校には行かないと言うから、「オウ」と言うだけだった。
指導欲が無かった、娘から普通の親はもっと厳しく言うとか言っていました。
自分の暮らしが忙しかったが、子供の居所は判っていた。
毎年子供同士が1,2件子供同士の殺し合いがあって、起こり続けていて、本質的に考えようとする気が、社会的に起きないことが不思議でしょうがない。
子供達はつまらない、退屈なんだよね、うろうろするしか無くて、そのうち何がね、というのは簡単な話で、生活がつまらない、多くの子はもしかすると崖っぷちなんじゃないのかなあ。
兵器産業がもうかる、だから戦争が無くなる訳が無い。
被害を受けちゃうのは子供でしょう、女、老人でしょう。
大原則は個だと思う、個についてもっと気楽に慎重にやっておいた方がいいような気がする。
自分の質、自分の個とはどんな質なのだろうと、自己発見できるようなのはどんなシステムが一番いいのかなという事をもっと研究した方がいいと思います。
長い事絵本作家をやってこられたが、気分の整え方、体調等工夫してきたんだと思います。
テニス、チェロ、マージャン上手くなりたいと思う。
ちょっと良くなると、上手くなると、楽しい。
努力、上達、感謝とか高校生とかのころと70歳では文字は同じでも意味が違う。