2022年8月8日月曜日

斎藤弘美(NPO法人 日本サハリン協会会長・元フリーアナウンサー)    ・【戦争・平和インタビュー】 サハリン残留日本人に思いを寄せて

斎藤弘美(NPO法人 日本サハリン協会会長・元フリーアナウンサー)    ・【戦争・平和インタビュー】 サハリン残留日本人に思いを寄せて 

ロシアのウクライナへの軍事侵攻が始まって間もなく半年です。  この間ロシアが北方領土問題を含む平和条約交渉を中断する意向を表明するなど、日本とロシアの関係にも大きな影響が生じています。   北海道に広がるかつての樺太と呼ばれた台地、現在のロシア極東サハリンには戦後の混乱の中で様々な理由で帰国

せずに残った日本人、今も暮らしています。   こうしたサハリン残留日本人の日本への帰国を支援してきたのがNPO法人日本サハリン協会の会長で元フリーアナウンサーの斎藤弘美さん(65歳)です。  日露関係が冷え込む今も一人でも多くの人を帰国させるための模索を続けています。   戦後生まれでかつてサハリンとは関わりがなかった齊藤さんが、今も残留日本人の問題と向き合い続けるのはなぜでしょうか。  

サハリンの歴史と言った時に、サハリンと樺太が同じ場所だと知らない人が多いんです。  第二次世界大戦前の40年間だけ日本のものだったので、日本人が沢山住むようになりました。  森林開発、石炭の開発を進めますが、とても質のいい石炭が出て来ました。   パルプを生産する森林が沢山あるのでパルプを生産する。   水産業も盛んになる。  終戦直前の人口が40万人ぐらいでした。    

太平洋戦争末期は南の方が戦場になっていたので、守りは南の方に集中していました。    普通に住んでいたところにソ連軍が攻めてきたので大混乱でした。   南へ逃げてゆくが機銃掃射などでたくさんの人が亡くなりました。  8月15日の終戦の日の後も続いていて、緊急避難する船が沈没させられたりして、逃げる事もできなくなって樺太に残されてしまった人たちがたくさんいました。   日本人が何人残っているのか判らない。  調査もしたことがない。   親を亡くして自分が日本人であることも知らないで成長した人もいますし、日本人であることを明らかに出来なかった人達もいます。   現在は70人ぐらいいるんじゃないかと思います。(曖昧)    何でそうなったのかをちゃんと考えた方がいいと思います。   戦争の時に起こった出来事が、今又同じように世界のいろいろなところで起こっているわけで、過去ではない。

NPO法人日本サハリン協会ではまず一時帰国をやりましょうと活動しています。  永住できるという選択肢にもなりました。  お手伝いを1992年からするようになりました。 まず日本人であるという証明をしなければならず、たくさんの書類が必要となる。   協会として手伝ってあげてその人たちの負担を減らす。  資金的にも募金したりして援助する。   一時帰国する人が3700人ぐらい呼んでいますが、実数はその半分ぐらいです。  協会が関与した人たちだけなので、個人的にはたくさんの方々が一時帰国しています。  永住帰国も現在137世帯(309人)になります。   

社員のアナウンサーでしたがフリーのアナウンサーになって、ある番組のアシスタントをしていて、樺太残留韓国人の帰還運動がありました。   その後平和を考えるためのピースボートに関する企画があり、私は社会主義のソ連に行ってみたかったんです。   行った先の或る集会で日本人の人が隣に来て、日本人に会ってみないかと言われて行ったら4,5人の日本人のおばさん(50代後半)がいて、日本的な食事をごちそうしてくれました。   日本人に会いたかった、日本語を話したかったという事でした。   サイドボードには日本人の墓参団が食べて捨てていったお菓子の袋、煙草の箱、マッチの箱などで日本語が書いてあるものでした。  日本語を見ると懐かしいし、胸がきゅんとする、日本語を見ているだけで気持ちが落ち着くと言っていました。  ゴミではなく宝物になっていた。

稚内からサハリンの南までが43kmで、そんなに近いのに行ったり来たりができなかった。残留していた人たちがこんなに日本を思っていたとは、想像もしていなかったことにとてもショックでした。   知らなかったことにとても申し訳ないと思いました。   残った人は長女が多く、母親、兄弟を食べさせるために韓国、ロシアの人と結婚して養なってもらっていた。  引き上げ船が来た時には母親、兄弟は帰っていけたが、結婚して子供もできて長女が残っていることが多かった。   私も長女だったので、私がこのかたがただったかもしれないと思いました。     

仕事が切れた時にボランティアできましたと言ったら、もうこの会は辞めるるんだと会長が言いました。   会を辞めないで欲しいという声が多くありました。  当時私は56歳で「あんたがやりなさい」と言われて、天から降ってきたことなのかなと思って引き受けました。   会長に就任して丁度10年になります。   ロシアのウクライナへの軍事侵攻は影響を与えています。  コロナで2020年、2021年の一時帰国は出来なかった。   今年は戦争のせいで全く来られなくなってしまった。  ロシアから日本に来る飛行機がすべてないからです。  兄弟とかが亡くなっても葬式にも来られなくなったし、墓参りにも来られない。  今後いつまでで続くのか。  

今年3月、かつてサハリン在住の日本人でウクライナで暮らしていた男性が北海道に避難してきた。 78歳の降旗英捷さん、日本サハリン協会の支援で北海道に来る。  彼は1歳半ぐらいで終戦になり、サハリンでソ連の人として生活してゆきます。  サハリンで就職して派遣されてサンクトペテルブルクの大学に行って、奥さんと知り合って奥さんがウクライナ人でウクライナに住むことになります。  戦争になり、ポーランドに逃げる事になる。  ポーランドの大使館と連絡を取り、募金活動をしてこちらでチケットを購入しました。   いろいろな問題をクリアして日本への帰国となりました。  降旗さんの日本への考え方と私たちの考え方では齟齬があることも気づきました。(単純な美談的なものではない。)  みんながみんな日本に来ることが幸せなことなのではないかもしれない。  自由に行ったり来たりするのが出来るのが、大事なことかもしれません。 

今一時帰国が止まってしまっているので、いろいろな方法を考えたりしています。    在留日本人の方々を無視してはいけない、無視すべきではないという事に対しては、出会った人の責任、そのことに気づいた人の責任、それを受け止める責任があると思います。