岡本静(ミンダナオ島からの生還者) ・【戦争・平和インタビュー】 ひとりぼっちの帰国
昭和8年(1933年)フィリピン ミンダナオ島のダバオ地域で商店を営む両親のもと、祖父や兄弟家族12人で暮らしてました。 太平洋戦争末期アメリカ軍の攻撃が激しくなり、その攻撃から逃れるため家族はジャングルをさまよいます。 祖父は行方不明になり、両親など家族10人は亡くなってしまいます。 当時12歳だった岡本さんはたった一人日本に帰国、過酷な状況を生き延び、フィリピン、ダバオでの壮絶な体験を文章や絵に書き溜めてきました。
祖父は清?、父が久吉?、母が雪乃?、一番上の姉が佐代子?、次が美代子?、次が私、妹が智子?、洋一?、徹?,喜美子?、由美子?、薫?の12人家族でした。 大勢の家族が亡くなっているから、絶対亡くなったところにはいかなければいけないと思っています。 行くのを待ってくれていると思って、一回でも多く行ってあげたいと思っています。 もう77年になりますが、一日も忘れたことはないです。
姉が3歳の時に、祖父が先にダバオに行って、年中暑いところだから子供は裸で育てられるからきなさい、という連絡が両親にあり、姉が3歳の時にフィリピンに渡ったそうです。 ダバオで百貨店を開いて、なんでも扱っていました。 スコールが毎日夕方に来て、飛び出ていって,帰ってきたら母が石鹸で身体を洗ってくれてそれで終わりです。 現地の子と夜にかくれんぼをして遊びました。 近くに映画館があり、繰り返し繰り返し夜中まで観ていました。 戦争になり、学校では薙刀を習って「敵をこれで突くのよ」、と言って習っていました。 学校の帰りには並んで軍歌も歌っていました。
昭和20年(1945年)アメリカ軍がミンダナオ島ダバオなどに侵攻してきました。 突然みんなで逃げる事になりました。 着いたところが農園をしていて2日ぐらいいた時に、アメリカの爆撃が始まって、父が外に井戸で水を浴びていました。 日本の飛行機だろうと思っていたら撃ってきて、日本の飛行機との空中戦を展開しました。 また逃げ出して着いたところが独身の男の人が住んでいる家でした。 姉が新聞社に勤めていて日本は負けるから早く逃げないといけないという事で、又逃げる事になりました。
逃げる様子をA3のスケッチブック、A2の画用紙に絵に描いています。(150枚ぐらい鉛筆で描いている。) 爆撃で石が妹の頭に当たってぺっちゃんこになった絵、智?ちゃん智?ちゃんと言って生き返ると思って揺さぶっていたら、一回「うん」と言ってから、もう即死でした。 年子の妹の智子?です。 みんなで一晩中泣きました。 一番家の姉が「もういつ死ぬか判らないから兄弟仲良くして行こうね」と言っていました。 翌日には又別の場所に逃げていきました。 銃を担いで木に寄りかかっている絵、死んでいる日本兵で、うじむしが湧いている。 白骨化したものもあちこちにありました。
死んでいる母親に子供が泣きついている絵、ジャングルの遠くから子供の泣き声が聞こえました。 その子のお母さんが死んでいました。 さらにジャングルの奥に進んでいって、様子を見てくると言って出て行った祖父が戻って来ませんでした。 長女も行方不明になってしまいました。 さらにジャングルの奥に進ん行き、父が小屋を作って、父が様子を見に行って出ていくことを3日続けていました。 アメリカ軍の倉庫からみんなが盗んできたようで、それをどこかで聞いたようで、行ったら殺されると母が言っていたが、手ぶらで帰ってきて、3回目には夕方になってもなかなか帰ってこなくて、帰ってきたら顔が真っ青になっていた。 頭が痛いと言って囲炉裏の方に足を向けて寝ました。 お粥が出来たと言って足を叩いたが起きない。 顔を見たらすっとわかりました、死んだ人を見てきているから。 喜美子?も下痢をしていて、起きてこなくて、喜美子?も一緒に死んでいました。
別の小屋を見つけたが、母も姉、妹たちも寝てしまって、私と弟洋一?だけが元気でいられました。 食べるものもないし、過ごしているうちに、鉄砲の音がしました。 日本の兵隊だと思って、母が呼んできなさいと言いました。 行ったら一人の日本兵が来てくれました。 母が撃ち殺して下さいとその人に頼みましたが、そんなことはできないと帰って行きました。 私がいつもおんぶしていた六女由美子?が亡くなってしまいました。 なかなか埋められなくて顔だけ残して埋めました。 スコールが来て段々水が溜まっていき、その様子を母に告げると涙を流していました。 その2日後には薫?(4か月)が死んでしまいました。 父親の横に寝かしてきなさいと言われて、おんぶしてジャングルの中を歩いて父親の隣に寝かせましたが、父親の顔にはカブトムシが一杯群がっていてそれが怖かった。 急いで戻ってきました。 母親も亡くなって、兄弟4人になってしまいました。 次女美代子?、三男徹?は歩けないのでおいてゆく事になりました。 次男の洋一?と二人で行く事になりました。 「連れて言って、どこ行くの」と姉の声がして泣いていましたが、黙っていました。 軍属のおじさんと収容所を目指しました。 姉の同級生がいて、「静ちゃんじゃないの、遅かった、お姉さん昨日死んだよ。」と言われました。 長女の姉が行方不明になっていたが。
洋一?はトイレに入るとなかなか出てこなかった。 栄養失調で下痢をしたら、絶対助からないと言われていて、或る時私にもたれかかったまま死んでいました。 綺麗にして埋葬してくれました。 ついに一人になってしまって、何も考える余裕がありませんでした。トラックに乗って病院船に乗りました。 軍医さんから4,5人孤児たちがいて一緒に甲板に行くように言われ、両親にお別れを言いなさいと言われて、みんな泣きながら「さようなら」といっていました。 椰子の実がぽっかり浮かんでいたのが見えて、軍医さんが「椰子の実」の歌を歌いはじめました。
戦争が無かったら平和に暮らしていたのに、どうして戦争が始まったんだろうかといつも思っていました。 母親が死んでも兄弟が死んでも泣きもしなかった。 心が鬼になってしまった。 何処の国も争いごとをしないで仲良くしてほしいと思います。 77年になるが一日も頭から離れたことはないです。
岡本さんの戦争体験は息子の賢一?さんによって手記としてまとめられ、高知市の図書館で読むことが出来ます。