戸高一成(海軍史研究家) ・戦艦「大和」が語るもの
1948年(昭和23年)生まれ、74歳。 広島県呉市にある呉市海事歴史科学館(通称「大和ミュージアム」の館長を2005年のオープン以来勤めています。 2019年には『[証言録]海軍反省会』全11巻で菊池寛賞。
戦艦大和の1/10の模型、全長が26m。 船の展示模型としては世界一大きいと思います。 戦艦大和は極秘の船なので、終戦の時にほぼすべての資料を焼いたんです。 きちんとした復元が本当に難しくて、残された資料を全部集めても足りないので、規格品の部分も多いのでほかの軍艦の資料も集めて、徹底的に調べて図面をおこして建造しました。
国民が大和の存在を知ったのは、基本的には戦後です。 幻の戦艦という事で思いいれが多くて、興味を掻き立てる船だったようです。 46cm砲を持っている戦艦は大和と武蔵だけなんです。 弾丸の直径が46cmで重さが1トン半ぐらいあります。 弾丸を4万m飛ばすという事で軍艦に積んだ大砲としては世界一です。 最新技術が導入されて調理も電気化されていて、生活環境は非常に良かったようです。 造船的に言うとバルバス・バウ と言って艦首が丸く突出していている設計で、これが大型船の主流になりますが、大和の特徴でもあります。
次の戦艦はかくあるべしという事で、後の大和型のプランを立てたのが松田千秋さんという方です。 昭和18年に戦艦大和の艦長としてトラック島に着任しています。 その時の気持ちはどうでしたかと聞いたことがあるんですが、「それなねえ君、気持ちよかったよ。」と言っていました。 順次4人の艦長が担当しました。 戦艦の基本計画をまず立てて、奥田誠二さんをメインにしてスタッフの中に若い松本喜太郎さんが加わります。 松本さんとは20年近く話を聞く機会がありあました。 最初20種類ぐらいのいろいろな考えが出され、試行錯誤しながら最終的な形にもっていった。 軍艦を実際に設計する牧野茂さんとも仲良くさせていただきました。 ああすれば、こうすればよかったのではないかと、大和に対する不十分だったことを亡くなるまで反省しながら暮らした人でした。
乗り組みの方にも話を聞きました。 沖縄を渡航するときに第二艦隊の長官は伊藤整一中将で、副官として務めた人が生き残っていて、その人に最後の大和の戦いの様子は直接随分聞きました。 伊藤中将は大和が沈むことがはっきりして、この作戦は中止するという事で、生存者を救助して残りの船に引き上げろと命令した後、大和の船底に近い自分の部屋に戻って内側から鍵を掛ける音を聞いてから、その人は自分は脱出したと言ってました。
資料調査会に勤めていた時の私の上司は 山本五十六長官の参謀だったので、 山本五十六長官と一緒に大和で勤務していたので、日頃の大和の生活もよく聞きました。 戦時中とは思えないような食事とか優雅な生活の話を聞きました。
第一次世界大戦後、軍縮会議で主力艦のそれぞれの国が持つ勢力を比率で決めて、アメリカ、イギリスなどに比べて6割ぐらいに設定されます。 例えアメリカが来ても全部がいっぺんに来ないので、それに負けないもので貧しい財政のなかで日本を守ろうという事で、考えられたのが「大和」なんですね。 「大和」ができた昭和15,6年ごろは飛行機は発展途上でした。 最後の決戦勢力は海軍だと当時は思われて居ました。 「大和」、「武蔵」などは最後の決戦勢力だと思っていて、細かい作戦には使いませんでした。 小さい船がどんどん沈んでいって王様だけが残るような海軍になってしまうわけです。 使う機会を失って、最後に使えないと判りながら「大和」を出して沈めてしまうということになるんです。 レイテ沖海戦で46砲が火を吐くが一発も当たらないですね。 残念な結果ではあります。 敵の弾が届かないところから撃って沈めれば安全で必ず勝てるという考えがありますが、これは間違いで、遠くからでは弾は当たらない。 効果が発揮できない大砲になってしまった。
戦況報告で航空特攻の話が沢山出て、天皇から水上艦隊はどうなっているかを問われて、忖度して過剰に反応して、残っている主力艦隊を特攻にしないといけないのでは、と言う風に考えてしまうわけです。 上からの指示には反対でしたが、伊藤長官はついに説得されたが、とても沖縄まではいけないだろうと思っていたようです。 お昼にアメリカの攻撃圏に入る。(本来なら危ない時ならば夜に運航) 同じ沈むなら正々堂々戦って沈むところを見せつけようという気持ちがあったのではないかと思います。 アメリカは戦艦部隊よりも航空部隊という事で総攻撃が始まるわけです。 世界一の戦艦だったのにその能力を充分にふるう機会がなく、悲劇的な最期を迎えたという事で、日本人にとって深い同情心を掻き立てる、世界一だという誇りを掻き立てる、いろんな意味で戦後の日本人に大きな影響を与えたと思います。 アメリカにも作れなかった巨大戦艦を日本は作ったんだと、その力があればまた復活できるんだという、戦後復興の大きなてこになったと思います。
幼稚園のころから飛行機、船が好きで、海軍、技術に興味を持って雑誌を読んだり、模型を作ったりしていました。 小、中学以降、神保町の古本屋で海軍の雑誌、本、海軍の軍人の伝記とか買って読んでいました。 ものを作るのも好きで、美大に行って美術家のような仕事が出来ればいいかなと思って多摩美術大学の彫刻科に入りました。 「大和」を作る事と彫刻でものを作るという事は根源的なところの気持ちではほぼ一緒です。 「大和」の1/10の模型を作ったのは楽しい仕事でした。 友人とデザイン会社を経営していましたが、辞めてしばらくしてから史料調査会があり、海軍の本を見せてもらっていました。 資料調査会の創立者が富岡定俊さんと言う終戦の時に海軍の作戦部長でした。 そこの司書になりました。 上司が土居さんと言って山本五十六の参謀をやっていた人ですが、なんで日本はこんな無謀な戦争をしてしまったのか、なぜこんな悲惨な結末になったのか、自分たちが生きているうちにきちんと残していかないと、命がけの体験、教訓が生かされなければもったいないという事で、会合をするんで手伝ってほしいと言われました。 海軍の中佐、大佐で現場のトップの方々が20人ぐらい参加していました。 自分たちの体験を話して討論するという事をしていました。 20年ぐらい経ってからNHKさんがNHKスペシャルを撮っていただき、録音したものを文字おこしをして10年以上かけて完成させました。 『[証言録]海軍反省会』全11巻
1999年に昭和館図書情報部長、その後、「大和ミュージアム館長」へ就任。 資料調査会にいた頃(平成5年)厚生省が戦時中の日本の国民が体験した労苦を残す資料館を作る事が決まって、平成11年にオープンして、平成15年の暮れに呉市の市長が見えて昭和館が落ち着いただろうから是非館長をお願いしたいという事で、呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)に就任しました。 どんなに素晴らしい技術でも人間の使い方が誤れば、人間を不幸にもする。戦争と平和と人の命の大切さと技術は、混然一体の歴史を持っているわけです。 「大和」を伝える事は日本人の努力と失敗の歴史の両方を見る事が出来るから素晴らしい。 戦争の実体験者がいなくなってきて、戦争を知らない私たちが次の世代に伝えるという事ははなはだ難しい問題に突き当たってしまう。 「大和ミュージアム」では観る人が自分で判断できる情報を提供をしたい。 戦争は二度とあってはいけない。