2022年8月29日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)         ・【絶望名言】 茨木のり子

頭木弘樹(文学紹介者)         ・【絶望名言】  茨木のり子 

戦争中から戦争直後の女性の青春を描いた代表作「わたしが一番きれいだったとき」など、没後16年経った今も人々の心をとらえ続けています。  どんな時も個として生きることを貫き、何もにも寄りかからず強く美しく生きた茨木のり子の言葉をお伝えします。

「もはや出来合いの思想には倚りかかりたくない。  もはや出来合いの宗教にはりかかりたくない。  もはや出来合いの学問にはりかかりたくない。  もはやいかなる権威にもりかかりたくはない。  長く生きて心底学んだのはそれぐらい。 自分の耳目、自分の二本足のみで立っていてなに不都合なことやある。  りかかるとすればそれは椅子の背もたれだけ。」       茨木のり子

  茨木のり子は昭和を丸々生きた詩人です。  生まれたのが大正15年、亡くなったのが平成18年。    

「後年歴史年表をしげしげ見るようになってから、私が生まれた昭和元年から12年ぐらいまでが日本にとってどんなに激動の時代であったかが判り、慄然となる。」      昭和16年からは太平洋戦争になる。  戦争と青春が重なっている。            上述の「りかからず」の詩が茨木のり子の中でも、もっとも有名な詩だと思います。  73歳の時にこの詩集を出しているが、詩集としては当時大ベストセラーになった。(24万部) 
 茨木のり子の強さは反抗の強さ。  圧倒してくるものに対しての反抗です。   

「自分を強い人間と思ったことは一度もない。   むしろ弱い駄目な奴という思いが何時もありまして、兎に角和自身は強くはない、弱い人間です。」
「一般には人間も学歴や社会的地位で価値が決まるようですが、私のランク表に寄れば役立たずの駄目人間とされている人がすこぶる高みの椅子に座っていたりします。」     絶望を踏まえたうえで弱い者の側から声を上げている。  その声が凛としている。    

「大人になってもどぎまぎしてもいいんだな。  ぎこちない挨拶、醜く赤くなる失語症、滑らかでない仕草、子供の悪態にさえ傷つてしまう頼りない生ガキのような感受性、あらゆる仕事すべてのいい仕事の核には震える弱いアンテナが隠されている、きっと。」 茨木のり子  (「鎮魂歌」のなかの「酌む」という詩の一節)
山田太一さんの「左手の人差し指」という童話を読みましたので、例えとして判り易いと思うので紹介します。
左手の人差し指をカッターで怪我をした子、普段はあまり使わない指だが、怪我をして気が付く。  学校に行っても心配する人、ドジだとかいろいろな反応がある。   キャッチボールが出来ないので教室に戻ると心臓の弱い女の子がいて、それにも初めて気が付く。  指を怪我しただけでも気づかなかったことにたくさん気付く。  つまりどこかに弱さがあると普通なら気かないようなところに気く、考えないようなことを考える。 これが「震える弱いアンテナ」という事かなあと思います。   

わたしが一番きれいだったとき

街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達がたくさん死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差しだけを残し皆発っていった

わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように
              ね」      茨木のり子(
見えない配達夫」の詩集のなかの「わたしが一番きれいだったとき」の詩の全文)


 茨木のり子は15歳で戦争がはじまり終戦が19歳。  軍国主義教育を学校で受けて軍国少女だった。  敗戦なって世の中の価値観がいっぺんに変わる。   

ぱさぱさに乾いてゆく心をひとのせいにはするな みずから水やりを怠っておいて    気難しくなってきたのを友人のせいにはするな  しなやかさを失ったのはどちらなのか  苛立つのを近親のせいにするな   なにもかも下手だったのはわたくし  初心消えかかるのを暮らしのせいにはするな   そもそもが ひよわな志にすぎなかった        駄目なことの一切を時代のせいにはするな  わずかに光る尊厳の放棄  自分の感受性ぐらい自分で守れ   ばかものよ」    茨木のり子 (詩集「自分の感受性ぐらい」) 

ばかものよ」は茨木のり子自分自身に向かって𠮟っている。   

派手目のものを着ていると、国防婦人会に叱られたものです。  私は軍国少女ではありましたが、美しいものを求めることはそんなに悪なの、とどこかで思っていた。 個人の感性こそ軸になるのだという思いが強まって行ったように思います。  

幼いころわたしは勇気りんりんの子供だった

大人になったらこわいものなしになる筈だった

気づいたら

やたらに こわいものだらけになっていて

まったく

こんな筈じゃなかったな

よくものが見えるようになったから

というのは うぬぼれ

人を愛するなんてことも何時のまにやら

覚えてしまって

憶病風はどうやら そのあたりからも

吹いてくるらしい

通らなければならないトンネルならば

さまざまな恐れを十分に味わい尽くして

いつか ほんとうの

勇気凛凛になれるかしら

子供のときとは まるで違った」    茨木のり子(詩「通らなければ」)


母親を11歳の時に亡くしている。  父親はスイスに留学した医学博士で、病院の副院長を務める。  無医村に行ってお金を払えない人たちも診た。  茨木のり子が36歳の時に亡くなる。  翌年に『鎮魂歌』を出す。  

物心ついてからどれほど怖れてきただろう

 死別の日を
 歳月はあなたとの別れの準備のために
 おおかた費やされてきたように思われる
 いい男だったわ お父さん」    
茨木のり子(詩「花の名」の一節)
父親が亡くなることをずーっと恐れていた。  当時は結婚していて夫は医師で妻が書く詩に対して応援してくれる人だった。  愛する人が増える程怖さも気づく。  

「波の音」の一節

「・・・子供のと少しも違わぬ気性が居て しみだけがずっと深くなって・・・ 」

「みずうみ」の一節

「・・・人間は誰でも心の底にしいんと静かな湖を持つべきなのだ ・・・人間の魅力とはたぶんその湖のあたりから発する霧だ・・・」

「人に伝えようとすればあまりに平凡過ぎて、決して伝わってはいかないだろう  その人の気圧のなかでしか生きられぬ言葉もある」    茨木のり子(「いいたくない言葉」の詩の一節)

48歳の時に病気で夫も亡くす。  79歳で亡くなるまで30年間続く。  夫を亡くした悲しみから立ち直るために韓国語を習う。  夫いに関する詩は自分が生きている間は出さないと決めていた。     茨木のり子は或る人にはこういっています。  「出版されたら私のイメージも随分変わるだろうけれども、それは別にいいの。 どう読んでもらってもいい。  ただこれについてはどなたの批評も受けたくないのでね。」

「歳月」という詩集のなかの「古歌」の一節

「わたしの貧しく小さな詩篇もいつか誰かの哀しみを少しは濯(あら)うこともあるだろうか」 茨木のり子