2022年8月20日土曜日

井上章一(国際日本文化研究センター所長)・「洛外」から見た京都

 井上章一(国際日本文化研究センター所長)・「洛外」から見た京都

「京都ぎらい」「京都まみれ」そういった著作がある井上さん、厳しい批評、歯にきぬ着せぬ言葉の裏に京都への愛着を持つそんな研究者として知られている方です。   1955年(昭和30年)生まれの67歳、京都市西部の右京区で生まれ、25歳までは右京区の嵯峨で暮らしました。   ここは京都では洛外と言うエリアとされています。   その昔豊臣秀吉が都を囲うように御土居という土塁を設けました。   その内側を洛中、その外側を洛外と呼ぶようになりました。  その洛外も嵯峨に育ったことで、少し距離を置いて京都という街を見つめるという独自の価値観を井上さんは持つにいたります。   洛中に軒を連ねる老舗の暖簾を受け継ぐ人々に何を思うのか、千年の都と言われる京都の今の街並みをどう見つめているのか、コロナ前には年間400万人を超える外国人観光客が訪れていた京都、街の国際化が進みましたが、それによって失われたかもしれない京都の大切なものについても教えていただきました。   ズバズバと京都についての評論を展開されますが、最後までお聞きいただくと井上さんならではのユーモア、故郷京都についての深い知識や愛情、そういったものからのものなんだと感じていただけると思います。 

右京区の花園で生まれました。  妙心寺の直ぐ南側です。  小学校に入る半年前に嵯峨に引っ越しました。   東京に出張することを「東下り」という人が未だにいます。  東海道、東海道新幹線も東京から見ればすべて西になってしまいます。  西海道と言っても言ってしかるべき道ですね。  東海道と言っている以上東京は下りです。  多数派ではないが、洛中の人はそういう人はいます。   洛中に住んでいることを誇りに思っている方は老舗の方なんですね。  京都でも後継者問題があり、無理強いは出来ない。   300年、400年続いたしきたりを守り続ける事、口うるさい親戚、昔からのお得意さん、そういったものに縛られながら、仕事を続けることに、跡継ぎはみんな喜びを見出しているわけではないと思います。  

洛中、洛外、というのは平安京が出来た頃は「洛中、辺土」と言っていました。  室町時代後期には今の街は出来上がり、その辺からが京都の街中に生きる人々の歴史的意味があるのではないでしょうか。  上京、中京、下京と京都の中心部にありますが、上、下とはっきり分かれたのは応仁の乱の後からだと思います。   応仁の乱で多くの人が疎開をしました。  焼けた後に京都の人々が帰ってきて、新しく京都の街をこしらえ始めます。  上京に溝を掘ったり、土塁を作ったりして上京というところを作りました。  別の人たちは下京という新しい街を作りました。  これが後の京都の街を基礎付けていると思います。  戦国時代の終わりごろから、伊勢、近江、若狭など周辺の地域からビジネスチャンスを見出した方が来るようになります。  そういった人たちを中京衆と呼びますが、新参者という響きは有ったと思います。  中京衆がその後の京都の発展を支えるようになり、三井などそうですが、大阪、東京に店を持つようになり、やがては全世界に店を構えるようになるわけです。   

京都は第二次世界大戦でそんなに空襲を受けなかったんです。   多くの古い家屋が保たれました。   連合国は京都の街並みをそこそこ守ったわけです。   守られた街並みを資本主義の欲望のもとに壊していったのが、洛中の人たちなんです。   私は建築の勉強をしてイタリアで凄く衝撃を受けました。  フィレンツェのパラッツォヴェッキオは市役所としてパソコンを使って仕事しています。  パラッツォヴェッキオは築500年ぐらいになるんです。  日本では考えられない。  京都はすっかり現代都市になってしまっている。  ポーランドのワルシャワでは1944年のドイツ軍の空爆でほぼ瓦礫になったが、自分のところの家を支えていた石を拾い出し積み上げていって、かつての家と寸分たがわず作り上げるんです。  京都ではマンション、ホテル、駐車場、雑居ビルに負けていっている。   日本では建築文化があんまり有難られないんだなあと、私は感じます。 

御池通り、堀川通り、五条通りは広いが昭和20年に広げられたんです。  空襲を受けた時の火よけ地、軍事物資の輸送を考えた道路でした。   見事に祇園祭の地域は守られている、綾小路、六角、新町など祇園祭に鉾や盾を出すエリアは手をつけなかったんです。   熾烈を極めた戦時体制の時ですら、祇園祭の中枢には軍は手をつけなかった。  高度成長期にどんどん街並みが変わって行ったことを切ないなあと私は感じます。  

上海は大変な勢いで経済発展を遂げました。  30年、40年で人口、経済規模も10倍ぐらいになったかもしれません。  1980年代に訪れた時に北京語を話す人に街を案内してもらいました。  上海は上海語をしゃべるので自分には全く分からない、と言われました。   5年前に行った時には上海で上海語をしゃべる人はほとんどいなくなっていた。  上海が発展してビジネスチャンスのため世界中から経済人が押し寄せたんです。  その人たちはみんな北京語の学習者なんです。  北京語が圧倒的に多く使われるようになる。     京都、大阪はそんなにも経済的な発展はなかったので、関西弁でやり取りが出来るわけです。   いわゆる日本文化と言われるものを丸ごと守っている地域は、芸子、舞子さんがいる花街なんです。  京都では芸者とは言わない、芸者は男なんです。  国際化した日本語は芸者で芸子は国際化しないんです。  芸子という言葉はなくなってほしくないです。