猪俣さんは歌の師匠でもあり、プロデューサーでもあり、東京のお父さんでもある、そんな存在です。
猪俣公章さんは1938年福島県に生まれます。 1966年森進一さんのデビュー曲「女のためいき」で作曲家として本格的にスタートを切った猪俣さんは、数多くの名曲を残しています。 その一部、森進一さんの「おふくろさん」、内山田洋さんとクールファイブの「噂の女」、水原弘さんの「君こそわが命」、テレサ・テンさんの「空港」、海原千里・万里さんの「大阪ラプソディー」などおよそ30年間の作曲家生活で3500を超える作品を残し、1993年55歳でこの世を去りました。 猪俣さんは坂本冬美さんが「あばれ太鼓」でデビューした6年後に亡くなっています。
教えを受けていたのは約8年です。 NHKの『勝ち抜き歌謡天国』という歌番組があり、作曲家と出場者が二人ペアを組んで勝ち抜いてゆくという番組でした。 最終回が和歌山で行われて、そこに私が出場しました。 たまたま組んだのが猪俣公章先生でした。 番組収録後にご挨拶に行ったら、「おい、歌手になりたいか」と先生がおっしゃいました。 「ハイ、なりたいです」と言ったら連絡するからとい言われました。 オンエアが1週間後でしたが、そのちょっと前に電話で連絡があり、いろんなところからお誘いがあってもすべて猪俣公章にまかせてると言いなさい。」と言われ、そのように動きました。 それから2週間たったころ、又突然電話が掛かり、「大坂に来たのですぐ出てらっしゃい。」と言われて急遽和歌山から行きました。 先生がプロデュースした「近松心中物語」のラストシーンを見て感動しました。 「東京に出てくる気は有るか。」と言われて、「ハイ」と答えました。 直ぐにリュックを背負って先生のところへ行きました。
猪俣先生のお誕生日会があり、夜遅くなって段々人が帰って行ってレコード会社の人が数名いる中で、突然歌え、と言われて歌ったんですが、「バカ野郎、へたくそお前なんか田舎へ帰っちまえ」と言われて、涙があふれて来ちゃいました。 「これも修行のうちだ。」と言われて、「顔を洗って又みなさんの前で歌いなさい。」、と言われてまた歌いました。 今度は「よし、いいぞ」と言ってくださいました。 根性を試してみたかったのかどうか? 初めて「紅白」に出させていただいた時も「泣くな、泣くと歌にはならないから。」と言われました。 運転手などもやって付き人のような形をとって、レコーディング、裏方、マネージャーさんなどの仕事の理解が出来ました。
譜面が読めなかったので、「譜面の読み方を教えて欲しい。」と言ったら、「演歌歌手に譜面は必要ないんだ。」と言われました。 「譜面通りに歌っていい歌が歌えると思うな。」、と言われました。 朝、犬の散歩をしながら発声練習したり、待っている間の車の中で発生練習をしていました。 4月に上京して8月にはレコード会社が決まって、来年の春にデビューさせましょうという事になりました。 それがなければ、先が見えない状態で生活していたら挫折していたと思います。 デビュー曲が「あばれ太鼓」 19歳の私が、30年前に村田英雄さんが「無法松の一生」で大ヒットした楽曲をテーマにしていて、「ダサくない」?と思いました。 「先生、この歌は流行らないと思います。」と言ったら、「バカ野郎、新人が流行るとか流行らないとか、百年早い。」と怒鳴られました。 3回目のレコーディングでようやくOKが出ました。
最初の歌いだしで、「どうせ・・・」とありますが、「どうせ」に前に、「ん」を入れなさい(心のなかで)と言われました。 インパクトが違うんですね。 フレーズごとに教えられながらレコーディングしました。 70万枚を超える大ヒットとなり、その年の新人賞を総なめとなる。 翌年「祝い酒」で「紅白歌合戦」に初出場、泣くな、と言われていたので何とか泣かずに歌い終えました。 緊張感が解けて泣きながら袖に帰って来ました。 よく頑張ったと初めて褒めていただきました。
全部で66曲先生に作っていただきました。 「レコーディングの時には,詩をよく読んで理解して歌詞を大切にして歌いなさい。」、といつも言っていました。
肺がんになり1993年6月10日55歳で亡くなる。 私は知っていましたが、先生は病気の内容を知らずに、入退院を繰り返していました。 段々病状が悪化して、亡くなる2日前に病院に行ったら、陽気な感じで「ガンかもしれない、もうだめかもしれない。」と言われて、私はドキッとしました。 秋にはロサンゼルスとサンフランシスコで私のコンサートをやる予定で、先生が指揮をしてくださるという話があり、「先生が指揮してくれなければ始まらないコンサートですよ。 元気出してください。」と励ましました。 後ろ髪引かれる思いで病室を後にしました。 2日後危篤だという事で病院に駆けつけました。 その後仕事に行きましたが、病室のことと葬儀の時のことは記憶がありますが、他は記憶から消えてしまって放心状態でした。
その後出したのが「夜桜お七」(作詞:林あまり,作曲:三木たかし)でした。 小西先生にプロデュースしてもらって、出来た曲でした。 猪俣先生との最後のお別れで花を手向けていたら、後ろに三木先生がいて「冬美、先生のそばにいてあげなさい。」と私の背中を押したんです。 猪俣先生が三木先生に託したのかなと思いました。 作曲が三木先生でこの歌しかないと思いました。
2018年には猪俣公章さん生誕80周年記念アルバム、「Enka III ~偲歌~」 猪俣公章さん作品10曲が収録されていて、選曲は私が行いました。 最後の曲が「君こそわが命」で、先生もよく歌っていて、先生のお好きな曲だったのではないかと思い、これを最後に選びました。
先生への手紙
「毎日大好きなお酒を飲んでいらっしゃいますか。 先生がそちらに行かれて29年という月日が流れました。 ・・・私も55歳になりました。 ・・・『勝ち抜き歌謡天国』をきっかけを機に内弟子となり、翌年「あばれ太鼓」でデビューしたのが19歳の時でした。・・・ 「この曲は流行らないと思います。」 などと大変な失言をしてしまいました。 若気の至りとはいえ、今思い出しても冷や汗が出る程申し訳ない気持ちでいっぱいです。・・・素晴らしいデビュー曲を書いてくださったことに心から感謝しています。・・・この歳になってようやく猪俣メロディーを表現できる歌い手に成れたような気がします。・・・まだまだだなと微笑んでいらっしゃるのか、それとも少しは褒めていただけるでしょうか。 ・・・私がそちらに参りましたら是非答えをお聞かせください。 ・・・これからもどうぞ見守ってくださいませ。」