浅田次郎(作家) ・書くことは至福 前編
昭和26年生まれ68歳、今年3月に「流人道中記」という長編の時代小説を出版し話題になりました。 40歳の時に「とられてたまるか」で作家デビュー、1995年に「地下鉄(メトロ)に乗って」で吉川英治文学新人賞を受賞、1997年「鉄道員(ぽっぽや)」で直木賞を受賞しています。 その後も多くの本を出版し人情味あふれる作家として知られています。 読むこと書くことが大好きな浅田さんに伺いました。
若い時は長編小説だけで5本を持っていた時もあったので、今そのやり方をしてはクオリティーを下げる結果になるので少なくしようと思っています。 着物を良く着るようになりましたが、着ていて楽で夏涼しくて冬暖かいです。 時代小説は資料をたくさん使うので、普通の机椅子だと資料が沢山置けないので、周り360度に資料が置けるほうが仕事がしやすいが、畳の上ではズボンでは痺れて駄目で、着物だと下半身が自由で楽です。
「流人道中記」は大変ご好評をいただいています。
1860年姦通の罪を犯したという旗本青山玄葉に奉行所が切腹を言い渡したが、「痛てえからいやだ」と切腹を拒否したので、松前藩への流罪判決が下って、護送人に選ばれた19歳の見習い与力石川音次郎と共に奥州街道を北へと二人で歩んでいき、そこでの出来事が楽しい話、悲しい話、せつない話があとからあとから出てくる、といった内容の話。
江戸時代は遠いようで近い。 この小説を書く前に「一路」という小説を書きましたが、自分で書いておいて面白くて好評だったので、こういったものを書きたいと思って、罪人と護送役人の旅道中記を考えました。(創作です でも史実を曲げてはいけない。)
昔は一緒に汗を流して一緒に飯を食って、1か月も歩いて旅をした場合に別れの時にはどんな気持ちだろうと想像するんですね。 のっぴきならない事情がからまっていた場合には相当別れは重たいものだと思って想像して書きました。
我々の時代は映像を映し込んでそれをデッサンする作業をしているのではないかと思って、自分が小説を書き始めるときにそれを一番恐れました。 小説という成果を受け継いでゆくからには自分と同じ先人たちと同じレベルの仕事をしないといけないが、便利になって社会が変わっていった場合に、先輩たちと同じ仕事ができないかも知れない。 一番怖いのが映像化されれている自分の頭だと思って、映像をデッサンせずに自分がスクリーンの内側に入っている気持ち、360度登場人物と時間と空間を共有してその中で小説を書いている呼吸を自分ではいつも意識しています。
他の作家がどういう仕事の仕方をしているのかは分らない。
2000年「壬生義士伝」は、初の時代小説、「一路」は2013年、「大名倒産」2019年、「流人道中記」が2020年。
この本を書きたいから資料を読むというのでは時代小説は書けません。
僕の小説では幕末の10年間に集中していますが、この時代のことはわかるし、資料もあるし自信もありますが、ちょっとずれたら自信がないです。(時代背景、社会背景を知らない。)
明治時代に連載小説が生まれてヒットして、新聞だったら日刊で書いてゆく、週刊誌、月刊誌とそれぞれ違うのでどれだけかかるかはそれによって違う。
日刊には日刊に合う素材があると思う。 外国には無いスタイルなので外国では理解できない。
同時連載で似たような素材を使ったら危ないので気を付けないといけない、かけ離れていると頭は簡単に切り替えられる。
短編はこつこつ書いています。 1997年に「鉄道員(ぽっぽや)」を出版しています。
短編のひらめきはある時一つの塊になって落ちてきて、机ではなく歩いている時とかにふっと落ちてきます。
茫洋としたイメージを捕まえておいて、ストーリーも自分の頭の中で組み立てておいてそれを自由に書いていくというほうがいいものができると思います。 長編のほうがもっと自由です。
デビューしたころはワープロに変えてと言われたが出来なかった。 今でも万年筆で書いています。 字を書くのは嫌いではないです。
日本語の文章は和歌や俳句で分かる通り、どれだけ短い文章の中に大きな世界を閉じ込めるかという事に尽きると思いますが、それが日本の極意だと思います。 原稿用紙に書くときには肉体的負荷がかかる分だけ、何とか短くして書かなくてはいけないという風に文章を作っていると思うので、これは大事なことだと思っています。 そうするとワープロには乗り移れません、自信がないです。
なるたけ削り落としたそぎ落とした短い文章の中に大きな世界を閉じ込めるんだという気持ちで書き続けていかなければいけないので、それには肉体的な負荷をかけることが一番早道だと思います、だから手で字を書きます。