柳田邦男(ノンフィクション作家) ・【人生のみちしるべ】人は" 物語"を生きている 前編
柳田さんは1936年栃木県生まれ84歳、東京大学卒業後にNHKの記者として事故や災害の現場を多く取材し38歳で退職、ノンフィクション作家として執筆に専念されます。 「マッハの恐怖」、「がん回廊の朝」、『犠牲(サクリファイス) わが息子の脳死の11日』などで受賞歴は多数あります。 柳田さんがここ20年あまり大切なテーマの一つとしているのが絵本です。 全国各地で講演会など絵本の普及活動に取り組んできました。 今年「人生の一冊の絵本」という本を執筆、150冊の絵本を読み解きながら絵本と出会った人たちの様々な人生模様が描かれていて話題となっています。
コロナ問題の取材をしていて、沢山コロナで亡くなった病院の取材など連続してやっています。 自分自身老いたなあという風に後ろ向きを持たない性格なんだと思います。 若いころから現場に行くことが体に染みついているのが前向きにしていると思います。
8月12日、日航機事故の標高1500mぐらいの御巣鷹山へも杖一本で登りました、ずーと登ってきて今年で35年目になります。
人間の命や生きることの一番大事なことを教わるような感じで会う、これは現場ではなくては出来ないですね。
「どうして絵本の活動をされるのか」とよくいわれますが、厳しい社会問題に取り組むというのは、人間の命の問題が基本的なテーマだと思っています。
基本的なテーマは「現代人の命の危機」という事です。 子供が心の形成をしてゆく、立派に成長してゆき幸せをつかんでゆくという子供の社会は非常に危機的な要素を含んでいる。 子供に対する虐待、いじめ、ネット社会の中で子供は親身になって友達同士のふれあいといったことがネット社会の中で希薄になってきている。 これはまさに命の危機でもあるわけです。
子供の心の成長をしっかり支えてあげるにはどうあるべきか考えると、絵本というのが登場してくるわけです。 絵本でしっかり子供の人格形成、人間形成が育って来るとその子の一生が変わるに違いない。 大きな違いが出てくるわけです。
1936年栃木県に生まれ、9歳で終戦を迎える。 小学校3年生の終わりのころ東京大空襲がありました。 鹿沼は東京から100km離れているのに東京の空がどす赤い色に染まっていました。 震えるような気持ちで南の空をじーっ見つめていた自分がいました。
3年生になり7月に鹿沼でも軍需工場があり空襲がありました。 B29の大編隊でした。防空壕に入っていたら突然物凄く明るくなりました。 照明弾が落ちてきて街中が照らされ、焼夷弾が空一面に落ちてきてもう駄目だと思いました。 工場だけでなく200世帯ぐらいが焼かれました。 19歳の兄が仙台にいて矢張り空襲に遇い歩いて福島まで逃げて貨物列車にのって鹿沼まで帰ってきましたが、病気で亡くなり、ショックを受けて父も亡くなりました。 8月に終戦を迎えました。 戦争体験、父や兄の死、それらのことが命のことを考える原点になったと思います。
夫と子供を亡くして鬱になるような状況でしたが、母は淡々と日常を過ごしました。 長男が戦争から帰ってきて古書店を開いて生活を維持しました。 「しかたなかんべさ」、「なんとかなるべさ」が母の口癖でした。 現実をありのままに受け入れるしかない。 その口癖が自分に染みついていますね。
1960年23歳の春にNHKに入社 広島放送局で記者として働き、1974年38歳で退職、ノンフィクション作家となりました。 父無し子と言われ差別され、貧しい人間が差別されることはおかしいと思って、何とか改革しなくてはいけないと高校の時には議論していました。 世の中の構造を考えるには、経済が大事だと、経済の構造が大事だと思って、東京大学に行って経済学部に入りましたが、イデオロギーは人間を幸せにするかどうかという事に疑問を持ち出しました。
国家というものが権力志向の人間が権力を握って、権力を守るために一つの枠組みの中で国を切り回してゆく中で、貧しいもの、教育の低い人が軽蔑される。 どうすべきか考えたときに、もっと現場を知って自分で自分の思想を作らなければいけないということを大学に入ってすぐに考えました。 それが学生時代の自分の宿題でした。
取材記者になるのが一番いいのではのではないかと考え、NHKが受かりました。 ラジオだったので内容が短く、問題を深く追いかければ追いかけるほど消化不良になりフラストレーションがたまってしまって、退社してしまいました。
「現代人の命の危機」という問題に焦点を合わせて、心の豊かな社会を作るってどういう事なんだろうと思うとすごく難しい、人間の欲望という問題が絡むと争いがおこる。 そんな中で本当に心豊かに人々が繋がりあい、より良き社会を作ってゆくという事は至難の業だが、希望は捨ててはいけない、未来を信じて少しずつ現実にできる事からよりよくして行く。 作家でも地道に手伝うことができればいいのではないかなと思いました。
(1993年の夏57歳の時に25歳の次男洋二郎さんが心の病の末、自死しようとして脳死状態になるという経験をします。 『犠牲(サクリファイス) わが息子の脳死の11日』を執筆。)
戦争とは違って個人的ですが大事件でした。 人間と社会についての本質的なものを見ようとしてきた作家である自分にもっと深いところから、いわば直撃弾を受けたような感じです。 高校時代から少し心を病みだして、私も気づかなかった。 大学受験を失敗して浪人したころに表面化してきました。 2階から飛び降りようとして精神科に通うようになり5年間通院しましたが、息子との会話は頻繁にやりました。 1浪後大学に行きましたが、不登校でしたが、本は物凄く読んで、いろいろ鋭く質問してきました。 俺の心の深いところの苦しみを判っているのか、作家なんだから判るだろうといわれても、答えられなくて考えさせられました。 自死を図って脳死状態になり11日間ICUにいました。 昏睡状態と見えるかもしれませんが、意識がある時の議論した延長戦をそこでやっているわけです。 いいろんなことを問いかけてくるんです。 魂のコミュニケーションかもしれない。
精神性の命を考えるようになりましたが、脳死状態での会話というものは、第三者から見ると父親の頭の中で何かが回転しているだけだと科学的な説明ではそうかもしれないが、僕自身の実感としては息子とぎりぎりのところの会話をしていた。 息子から突っつかれるからもっと深く考えなければいけないという動機になるわけです。 精神性の命、肉体は滅びても決して滅びることはないと気付かせてくれたこと自体が、息子からのメッセージであり言葉だと思っています。 それが自分の人生の中では大きな節目になりました。
現場を大事にしたい、現場を見なければ自分の思想は作れない、という事ですが、深いところに脈々と今に伝わっていることが見えてこない、今まで見てきた事実とは表面的なものでしかないのではないか、もっと心の深いところにあるものを見なければいけないのではないか、という事と、息子の脳死状態は全く今までと違う現場で、もっと地層の奥深いところそこまで掘り下げるべき現場、それを問いかける現場だと思いました。
息子の生きた証は『犠牲(サクリファイス) わが息子の脳死の11日』に書きましたが、扉を開けただけで、その深いところに何があるかという事は一生をかけて、少しでも少しづつでも書いてゆくしかないと思っています。
日航機事故の現場、35年経った今年御巣鷹山に登っても、事件が起きた当時登ったときとは全く違った姿で見えてくる。 その中ではっと気づかされるものがあります。 ニュース記者のように人に伝えられるものではなくて、どういう言葉で表現できるものなのか、これから時間をかけて考えなければならない。