大島満吉(葛根廟事件慰霊の会代表) ・生存者が語る「葛根廟事件」
昭和20年8月14日 終戦の前日 旧満州の草原でおきた葛根廟事件では1200人の日本人避難民が旧ソ連軍の侵攻で壊滅状態になりました。 その惨状は余りにも過酷でこれまで身内にも話すことができなかったといいます。 大島満吉さんは家族6人で避難を始め、当時日本人とモンゴル人の交流の場であった、葛根廟というラマ教(チベット仏教)の寺院に身を寄せようとした8月14日ソ連軍の攻撃を受けました。 一年後日本に引き揚げたのは約110人だけでした。 大島さんは葛根廟で亡くなった方々の霊を慰める慰霊の会の代表を務めています。 当時9歳だった大島さんはご自身の体験と亡くなった方や生存者の方を丹念に調べ葛根廟事件を次世代に伝えています。
葛根廟事件が起きてから75年経って、映画にもなったりして少しずつ知られるようにはなりました。 自分たちでは正直なところ、身内の人にも話せないというような非常につらい話があるのでものに書いて書き残すことはできて、生存者の方が手記を残しているのがいくつかあります。 自決の話があるのでどうしてもこの話は苦しくて一般に話すことはないんです。 10年ぐらい前から若い方々が戦争のことを語り継ごうというような研究会みたいなものがいくつかあり、その方々から声があり、その話をしたときに主催してくれた方々からいい話を聞かせてもらいました、と言われましたが、頼まれたときには話すことができますが、そうでないときには一切話ができないのが現実です。
早稲田大学のある教授から学生に話してくれないだろうかという事を言われました。
京都大学でも学園祭で話す機会を得ました。
田上龍一(40代)監督からも映画化したいという事で実現ました。 後世に伝えるべきだという事で映画を作っていただき見たらよくできていて吃驚しました。
8月9日にソ連が宣戦布告をして日本に戦争を仕掛けてきました。 11日の爆撃で全部通信関係が不通になる爆撃を受けました。 関東軍はいなくて、軍は軍の組織を守る、国の行政機構を守るのが第一優先であって市民は市の管理の管轄なんだという事を知りませんでした。 避難するのには徒歩しかなかった。 リヤカーに荷物を積んで11日に出発しました。
両親と兄弟は男3人、妹の6人家族でした。 兄が10歳、私が9歳でした。
14日の朝はソ連軍が予想外に早く来るという事で、朝早く出かけました。 葛根廟まで2,3kmのところまで来ましたが、隊列を調整するために休憩という事になりました。 ものの何分かしないうちに、山の稜線にソ連の戦車が待っていました。
日本人の一団に突っ込み、人々をなぎ倒し、機銃弾を浴びせた。 母親と私と弟、妹で慌てて逃げ出しました。(父と兄は別になっていた。)
逃げる途中で偶然豪がありそこに飛び込みましたが、20,30分したら静かになり3人の兵隊が豪に現れて日本の軍隊だと思ったら、ソ連兵で母親が伏せるように仕草をしました。
女子供4人だったので危害を加えられなくて、30m先に男を含んだ30名ぐらいが固まっていて、それの兵隊がその人たちに向けて撃って全員が死んでしまいました。
兵隊は移動していって、気が付いた時には逃げてきた人たちは誰もいませんでした。
父と兄の姿は見えませんでした。
軍の人から生きている人は40人ぐらいいます、自由行動してください、重傷者がいっぱいいて歩けなくてもう生きる道がなくなって放ったらかして自分たちが行くのではなくて、自分たちも責任を取りたいので、どうしても死を望むなら自決を補助します、といったんです。
小さい子がいるところはそれぞれ処分してください、という事でした。
自分たちは生きられないと母は覚悟して3歳の妹を自分の手にかけざるを得なかった。
自決ほう助しますという事で私たちも並んで順番を待つことにしました。 私たちは最後から7番目ぐらいのところにいました。
軍人の人が人の命をとるという事が大変で疲れてしまって、一休みすることになり待たされることになりました。 その間に中国の地元の人たちが亡くなった人、生きている人を含めた日本人の物取りに来ました。
そこに父と兄が来て会うことになりました。 逃げようという事になったが、母は妹と一緒にここで死にたいという事したが、父が何とか説得して、一緒に並んでいた小山校長の子供たちがいたが告げずに夜に豪を脱出しました。
40年後になって一緒に並んでいた小山校長の子供の一番下の子が残留孤児になって帰ってきました。 対面した時に告げずに逃げたことがものすごく心の中の痛手になって残りました。 「よく生きてくれたね」と一言言いたかったが、涙で声が出ませんでした。
新疆にたどり着いたのは15,6人ぐらいでした。 全部で1年後に日本に帰ってきたのは110人ちょっとでした。
父が病気になり、食べるものもなくて長男が貰い物をして、その後あるおじさんが働くことに対して段取りをしてくれました。 半分の南瓜をくれてこれがみんなを救えると言って兄は泣きながら帰ってきました。 父が回復していきました。
日本に帰ってきたのは昭和21年10月1日に帰ってこられました。
昭和45年に父は葛根廟の大草原で亡くなった方々を慰霊しようという事で命日会を始めました。
8月14日の命日会は30人ぐらい参加して、95歳まで父はやってきました。
昭和53年の命日会の時に森繫久彌さんが追悼の辞を寄せてくださいました。
新疆在住の大串さんが当時新疆放送局のアナウンサーとして働いていた森繁久彌さんと親交があったそうです。 大串さんが本をお書きになったときに追悼の辞を寄せていただき、自ら詩に音楽を付けて草原の音もつけて貴重なCDがあります。
戦後75年の記念誌「今に想う」が今年できました。 ほぼ一人で作り上げました。
若い方も関心を持ってくれるようになりましたが、生存者にとって私たちにとって時効はないですから、気持ちの中でさっぱりしないので、後世の方に戦争は絶対駄目だという事を強調していかないといけないと思います。