上野 誠(奈良大学教授) ・墓じまいと家じまい
上野さんは1950年福岡県の商家の次男として生まれましたが、俳人だった母親の影響もあり国文学を学ぶため上京、国学院大学に入学、その後奈良大学に職を得ます。 福岡の実家は長男に任せていたところ60歳で亡くなったため、お母さんを奈良に呼び寄せ7年間介護したのち見送りました。 学者としてご自身の思考の拠り所である古典と自らの体験を往復しながらつづった著書、「万葉学者、墓をしまい母を送る」は 今年の日本エッセーイストクラブ賞を受賞しました。 葬儀や介護など家にまつわる様々な問題を一つ一つ乗り越えたのち、今どのような感慨を抱いているのか伺いました。
遠隔授業ではこちら側が熱意をもってやらないと、みんな聞けないと思います。 対面の面白さはその場で何か起こるかわからない、授業と授業の無駄話などそういったことが勉強だと思います。
研究室からは三笠山が見えるし、4階からは三輪山が見えますし、西には生駒山が見えて、地の利を生かす勉強を教えたいと思っています。 元号が発表された昨年の4月1日から2週間はスターみたいな感じでした、いろんなメディアが次々に来ました。 万葉集の巻の5からのまさに良い天気のときに素晴らしい梅の花見ができた、そういう平和な時代がやってきてほしいという願いが込められた年号です。 年号は国民の希望の形ですので、よい時代がやってくるかどうかは我々の一人一人の努力にかかわってくるわけです。
「万葉学者、墓をしまい母を送る」は今年の日本エッセーイストクラブ賞を受賞しました。 お前は次男だから後をつながなくていいという事で万葉集の勉強をしていきましたが、店が立ち行かなくなって自主廃業して、兄と家族が母親と一緒に暮らしていましたが、兄が59歳でがんで他界してしまいまして、母は九州の博多なので奈良に呼ぶしかないと思って7年間介護して見送って、7年間の経験と、中学2年生の時の祖父の死、父親の死、兄の死、母親の死を通じて、死とのかかわりについて考えて、小さな家族の歴史と、古典を重ねあわせて、葬式、お墓のことについてなどについて考察していきました。 心性(心の在り方)の歴史、40年間の間にどのように変わっていったかを考えてみました。
祖父の死はいまだに忘れられないです。 郷里の福岡県の朝倉市では亡くなった人の体を綺麗にするために湯灌ということをしますが、亡くなった方をお風呂でお湯をかけて身体を綺麗にしてあげますが、これは女性の仕事になっていますが、私は13歳で大人ではないという年齢だったので、母親とおばあさんが私におじいさんの遺体を背負わせてお風呂まで運ぶという事をしましたが、死者の肌触り、死者の冷たさを知るわけです。 お風呂に入れて綺麗にして寝床に戻すわけですが、終わったあと腰を抜かして動けなかった、鮮烈な経験をしました。
火葬になってお墓に入ってしまえば肉体が失われるわけですが、肉体をいとおしんであげるという役割があるわけです。 葬儀の下支えをするのは女の仕事なんですね。 弔問客に全部食事を出さないといけない。1000食以上になるので、一日中料理作って洗い物をしている。 男は段取りはするがぐずぐず酒を飲んでいたりする。
我々は社会を維持してゆくために金を使い、時間をつかっていたが、そういうことを辞めようという事になってゆくと、現在では家族葬になっていっている。
結婚式も仲人立てて、主賓のご挨拶があったりしていましたが、結婚式も小さくなるし、葬式も小さくなって、個人一人一人に合った形で、お金もかけないようにしようという風に変わってきている。 それは人間と社会のかかわりあいというものが変化している事と連動しているわけです。
1970、80年代では夜中の1時、2時に親父が5,6人を連れてきて朝まで飲むという事になって母親はおつまみを作ったりして、朝まで飲んで、朝もそうめんを出したりしていたが、今そんなことをしたら即離婚ですよ。
私たちは一人一人を大切にするという事によって、助け合いをしないで済むようになっていったというような、そういう時代の葬儀の在り方がいろいろあるのではないかと思っています。 この40年で急激に日本の社会は変わってきたと思います。
おじいさんは昭和5年に2階建ての大きなお墓を建てて、1階の納骨室には人が入れるほどで大理石を使って大きな門がある大きなお墓で、祖父母が死んで、お墓が老朽化して、私の家の経済力ではお墓が維持できなくなってしまいました。 小さなお墓にするという墓じまいするわけです。
7年間母親を介護するわけですが、母親は九州で俳句をしていて九州でも一流の位置にあったと思いますが、母親の影響で万葉集を勉強することになったわけですが、母親は介護のために息子の仕事に影響を与えたくないと思うわけです。 そこで一つの哲学を持ったんです、介護する側が幸せでなかったら介護される側は安心して介護を受けられないわけで、そうするといろんなことが決まってくるわけです。
後押ししてくれたのが古典で、「 この世にし楽しくあらば来む世には虫に鳥にも我はなりなむ」 人間というものは最後には死ぬものであるのでこの世に生きている間は楽しく生きるべきだ、この世で楽しく生きることができればあの世で虫になっても鳥になってもいい、という大伴旅人の万葉集の歌です。
介護や死を考えるときに読んだ古典が「臨済録」という禅の本ですが、こだわりの対象となるものであったならば、仏様でも殺すくらいの覚悟がないと駄目だよ、というのが臨済の教えなんです。 何とかして解き放つ必要があるだろうと、その哲学は中国の六朝思想と言って陶淵明などはその影響を受けていて、老荘思想の影響を受けているが、そういう多きな知の流れがあって、世の中いろんなやり方がある思って、母親と話し合って胃ろうはやめよう、酸素吸入はやろうと、写真も元気のいい時に取ろうという事でした。
介護はするほうは日本一の親孝行を演じているわけですが、介護される母親は健気に気の強いさっぱりしたごりょんさん(商家では主に「若奥さん」を意味する)を演じて、逝くという事です。
インドで死の間際にガンジス川のほとりで死にたいというので家族がじいさん、ばあさんと一緒に旅をしてガンジス川まで行くことがあるらしいが、死を巡る旅で一番重要だと思ってるのは、旅というのはその場所を愛してその場所を楽しまないと旅にはならない。 介護施設の秋祭りなどがあると鉢巻をしてはっぴ着て綿菓子など作ったりしてやると、母親も喜びます、その施設にいるときには全力投球する。
一冊にまとめましたが、古典の研究者がどう考えながら墓じまいして、母を送ったかという事で考えてみました。 母親と一緒にいた7年間と40年間の我が家の葬儀、お墓をめぐる状況、それを取り囲む社会と個人との関係といった事を書いてみました。
ホモサピエンスほど大きく協力をして食料を融通しあうことによって命をつないできた動物はなく、そのことによって大きく発展したわけですが、又ホモサピエンスほど大きな殺し合いをする動物もまたいない。 病というものと闘いながら人類は生きていたが、そのたびに社会を大きく変わってきたと思う、大きな疫病は時間を早回しする力があると思うんです。会社が人生そのものであった時代から在宅勤務を進めて余裕のある社会を作ろうといってもなかなか進まなかったが、コロナで知ったと思います。自分が持っている哲学、自分が持っている職業、自分が持っている文化、伝統、そういうような事を私自身は強く考えました。
「生ける者 遂にも死ぬる ものにあれば この世にある間は楽しくをあらな 」 人間は最後には死んでしまうのでこの世にある間は楽しくいかなければいけない。 楽しくある為にはどうしたらいいかがなくてはいけない。 その人が持っている地域社会の力で介護の在り方は変わってくると思います。 万葉集の注釈を書きたいと思っていて、万葉集は4516首あって20巻ですが、注釈を書くとなると10年かかり、5年間で刊行するとなると15年間かかります。 自分のライフスタイルはおのずからどういう形がいいか考えることになるので、自分に必要なもの、不要なものを選りわけてゆく、そういう風に考えながらやるしかないですね。