2020年9月10日木曜日

木下 晋(画家)            ・たどり着いた鉛筆画の世界

 木下 晋(画家)            ・たどり着いた鉛筆画の世界

木下さんは富山県出身73歳、木下さんの鉛筆画が注目されるようになったのは人間国宝となった盲目の吟遊詩人瞽女(ごぜ)の小林ハルを描いた作品だといわれます。  鉛筆画は10H~10Bまでの鉛筆を使って描く独特の画法です。  木下さんは人物を中心にハンセン病の回復者だったり、谷崎潤一郎の作品「痴人の愛」のモデルとなった94歳の女性だったり、インドの修行者やニューヨークのホームレスなど、苛酷な人生を生きる人の顔を描いています。 鉛筆画で描かれた年齢を重ねた人の表情から発生するエネルギーは見る人の心を強く揺さぶります。 木下さんは戦後ほどなく一家の生活が破綻し、飢えに苦しむ生活を体験します。 木下さんに光が差したのは木下さんの絵の才能に気づいた中学の美術教師の勧めで本格的に美術を学ばせてもらったことでした。   17歳の時、自由美術協会展に応募したクレヨンがが最年少で入選し、大きな話題となります。  彫塑、クレヨン、油絵などの経験を重ね自信作を持ちアメリカに出かけます。   600ほどの画廊を訪ね売り込みますが断られ作品つくりの壁に悩みます。   そんな時たまたま出会ったのが瞽女(ごぜ)の小林ハルだったのです。 木下さんは小林ハルの 声に刺激を受け奮い立ったのです。  この出会いが彼の絵を鉛筆画へと決定付けたのです。  たどり着いた鉛筆画の世界、画家木下さんに伺います。 

妻の介護をしながら絵を描いています。  パーキンソン病で15,6年前からですが、判ったのはこの5,6年前です。  妻をモデルにしたほうがより中に入っていけます。

颯爽としたときと比べると、本人もいまの自分の意識がついていっていない感じです。

20,30年前から高齢の人の顔を描くようになりました。

中学になって美術部の先生が彫刻をやってみないといわれました。 美術の先生が美人でした。 

鉛筆は10H~10Bまでの22段階の濃淡があります。  

作品はアメリカの美術教科書にも取り上げられたり、絵本「ハルばあちゃんの手」になったりして、又野性のパンダを見に中国まで行きました。

東京大学工学部建築科非常勤講師を10年やりましたが、高校中退の学歴、先輩としては安藤忠雄さんで専任教授として入っています。 建築の分野の世界的な権威がいっぱいいます。

最初東京大学の授業に行ったときに全然駄目で、学級崩壊みたいでした。  以前アメリカの大学で教えたときにはそんなことは全然ありませんでした。  

助手の人が見かねて「君たちは恥ずかしくないのか、君たちはいやしくも東大生。 ここに先生が来られて聖なる授業だ。」と言って、怒ったわけで、そうしたらシーンとしてしまいました。  助手の人は学生たちから尊敬されている人でした。

高校2年の時に自由美術協会展に応募、学校に新聞社が来てびっくりしました。

題は「起つ」、キャンバスは高くて買えないので、ベニヤ板にクレヨンのくずを貰ってきて描きました。   1964年のデビュー作でした。

裸の人物が後ろに手を組んですくっと立っていて、後ろから描いた構図で金剛仏が立っているような感じですが、何故かというとそれまで彫刻の勉強をしていましたので彫刻的な描き方になりました。

2,3歳ぐらいから家の内外で描いていたようです。  父はとび職でしたが、家が焼けてしまって竹やぶの中に住んでいました。(戦後間もないころ)

母親が出て行ってそのあとを追ったんですが、見失って夕方ごろになるとお腹がすいたのでパン屋のところでつい手を出してしまって、家に帰ると父の怒られるので帰りたくなくて、児童相談所に身柄を渡されました。  父や担任が来たが会わずにいたら最後に校長先生が来て話をして、「ああ、無情」の本(1本のパンを盗んだことをきっかけに、結果として19年間もの監獄生活を送ることになったジャン・ヴァルジャンの生涯を描く作品)を置いていきました。  本を読んで自分でも希望があるんだと思いました。 その後も本を何冊か持ってきてくれました。

中学では美人の美術の先生に憧れて、その先生が人(富山大学の大滝先生)を紹介して美術を勉強する環境になりました。

生活保護を受けていたので東京の彫刻家を紹介してくれて東京に行くわけですが、先生が旅費などを出してくれました。  東京の彫刻家の木内克先生は先生の先生でして、そのまた先生がロダンとかアリスティド・マイヨールが先生なんです。

東京に着いて上野のベンチで寝ていたら家出少年だと間違われ、木内克先生と会うといっても警察官は信用していませんでした。 信用されないまま一応パトカーで木内克先生のところに連れていかれたが、先生が私に向かって「木下さん」といったもので警察が逆にびっくりしてしまいました。

その後絵で入選したが、トラブルがあり経済破綻、生活苦、高校中退という事になってしまいました。

結婚には反対され妻とは駆け落ちすることになりました。

ニューヨークで世界的芸術家荒川 修作さんはわけのわからぬ日本人などは会うことができないことでしたが、会うことができました。  というのは荒川 修作さんの先生が瀧口 修造さんという詩人で日本にシュルレアリスムを取り入れたりした人で富山の隣村の出身でニューヨークに行ったら荒川 修作さんを訪ねなさいという事で荒川 修作さんはあってくれました。

母は知的障害もあり放浪癖があり、私は反発していましたが、荒川さんにその話もしましたが興味を持って会いたいとまで言ってくれました。  母親もモデルとしてみることになりました。  母親を含めて興味を持った人にはどんな人生を送ってきたのかとか、話を聞くことが大事だと思います。

1981年の5月にニューヨークから帰ってきて鬱々としていた時に、温泉で気を紛らして帰ろうとしたら、盲目の吟遊詩人の小林ハルさんの瞽女(ごぜ)唄があるから聞きなさいと言われて、唄いだしたら金縛りにあったような感じでした。  衝撃を受けました。

モデルになっていただくために2年ほど何度も通いました。  そこから私の人生は変わりました。  

たとえどんなにしんどくても一歩でも二歩でも前に進むことが大事で、小林ハルさんとか母親に見習いました。

進んで失敗するんだったらまだしも、進まないで失敗したほうがもっとダメージが大きいと思います。