2018年2月28日水曜日

金子兜太(俳人)             ・舌の記憶~あの時あの味(H28/12/23 OA)

金子兜太(俳人)      ・舌の記憶~あの時あの味(H28/12/23 OA)
2月20日戦後を代表する俳人の一人、金子兜太が亡くなりました。(98歳)
埼玉県生まれ、旧制高校時代に俳句を始めました。
大学を卒業後日本銀行入行、直ぐに戦地トラック島(現在のチューク諸島)に赴きました。
戦後は銀行マンとして働く一方、戦争などの社会問題を題材に伝統的な花鳥風詠と距離を置いた自由の作風で俳句の世界を革新し続けました。
悲惨な戦争の体験者として一貫して平和と反戦を訴えました。
舌の記憶では戦地での過酷な体験、人間の生きざま、ふるさと秩父への思いを伺いました。

97歳ですが、ちょっと腰が弱って来ている感じですが、全体の弱まりはないです。
妙に短気には成りました、つい「めんどくさい」と言ってしまったりします。
せらていじ?(先輩)おとぎ話作家が俳句をやっていて、「君は自然児だからなにもとらわれないで自由ににやったほうがいいよ」と言ってくれて、「五・七・五だけはきちんとして自由にやったほうがいい」と私の顔を見ると必ず言っていました。
朝は7時位に起きます。
朝ご飯は卵焼き、オクラ、トマトこれがワンセット、それともうひとつはトーストと牛乳とコーヒー、それだけです。
コーヒーは大好きです。
「曼珠沙華どれも腹出し秩父の子」
生まれたのは母親の実家が小川町で、そこで生まれました。
父親が開業医になると云うことで秩父の皆野町に家族でうつりました。
少年時代は自由にしすぎたぐらいでした。
うるか汁(魚のはらわた汁) アユのうるかを吸い物に味付けして煮て 、なす、きゅうり、アユなど入れて食べました。
父親も大好きで、あの味は今でも忘れられません。
あの苦味のある味が大好きでした。

私は漆にかぶれやすくて、戦争ごっこをやって、林のなを駆けずり回りますが、それにやられて全身かぶれてしまって、胃袋まで影響したのではないかと思っていて、食べ物までおかしくなりました。
伯母が心配してくれて、漆の木の大きな木が有りそこに連れていって、酒を漆の木にかけて盃を木にちょっとつけて「お前も飲みなさい」と言って、「お前は漆の木と結婚したんだ」と云う訳です。
そうすれば二度とかぶれないから必ず楽になり、何してもいいと言われて、それ以来私は漆にかぶれないんです、不思議な体験でした。
あの神通力のお陰で私は感度のいい男に成ったのかもしれません。
お陰で俳句も上手になりました。
自分の考え方で自由にやりたいと云う事でずーっと来ています。
父親(「伊昔紅(いせきこう)」の俳号を持つ俳人)が俳句が好きで、俳句会に若い人たちがきていて、句会の後に酒が出てけんかなどもして、母親が「兜太、お前は俳句など作るんじゃない」と言われてしまいました。
旧制中学時代全然作りませんでした。
旧制高校に入って1年目に出澤 三太と云う先輩から俳句を作らないのかと言われて、「良い歳をして母親に言われてと言うようでは見込みがない」と言われて、一気に作るようになりました。

「白梅や老子無心の旅に住む」 初めての作
詩の句を覚えていて、出て来ました。
その後ずーっと作り続けて来ました。
大学を卒業し、日銀に入行、海軍の一大基地のトラック島に行くことになりました。
海軍にとって重要な島でした。
食糧基地が空爆されて食べ物が無くなって、飢餓の島となりました。
サイパン島が占領されてから、トラック島は米軍の偵察機、戦闘機が年中監視していました。
人間が動くと機銃掃射するような危険な島でした。
食糧、武器の補給ができない状態でした。
さつまいもを作ることでなんとか食いつなぐ様な状況でした。
私は敗戦の年の3月にいきましたが、6月末にはサイパン島が米軍の手中になっていましたから、輸送路が断たれていて、東京爆撃が始まりました。

夜盗虫が現れて、サツマイモの苗を植えても根っこを食ってしまって、全然収穫が出来ない。
飢餓が始まり、200人ぐらいの中で50人ぐらいが死んでしまいました。
悲惨な状態でした。
カナカ族に行って頼んでヤシの実を貰ったりもしました。
魚がいそうな場所に行って、手りゅう弾を投げて、魚が浮かんできたところを捕獲するわけですが、グラマンが直ぐに察知して船が行くと機銃掃射をしました。
コウモリの巣があり、天井からぶら下がっていて、コウモリを取って焼いて食べました。
直ぐにコウモリもいなくなってしまいました。
島には蛇、蛙はいませんでした。
果物ではシャシャップ(マンゴーよりちょっと酸っぱい)が美味かった。
あと3カ月遅れて終戦に成っていたら、損害が倍に成っていたと思います、もう限界でした。

窮状に追い込まれた時の人間は駄目だなあと思いました。
俳句は全然できなかった。(俳句を作ろうとする余裕がなかった)
戦争が負けたと言うことが伝えられたときに初めて俳句が出来ました。
日記も付けていたが日記は全部焼いてしまいました。
機銃掃射されることをいつも考えながら行動していたので、何にも余裕はなかったと思います。
土木建築の工員と一緒だった部隊だったので、私は存在者といっているが、生きた人間そのもので、無邪気で傲慢無礼、人を平気で殺す、ひととの性的な関係なども全然平気で行う、女性をトラック島から内地に送り返した後、私の部隊は見る間に男色が広がったがその時は驚きました。
そういう人間たちを見てきて、酷いものあと思いながら無邪気さなどもいいものだなあと思ったりするが、その人を殺してしまう戦争は良くないなあと思いました。

なんともいえぬ無邪気さ、存在するだけの人間の姿をトラック島でしたたかに見たような気がします。
その体験が貴重と思っています。
戦争が二度とないようにして貰いたいし、自分でも微力でもそれに協力したい、平和が大事、戦争は絶対いけない、そう思うようになりました。
あるがままの存在、それが大事だと思います。
人間とは美しいものだ、無邪気なものだ、しかし始末の悪いものだ、それがなんともいえぬ味わいだと、そう思っています。
存在者としての人間と言う、貴重さが判れば判るほど、戦争は反対と言う思いは募っています。
秩父の中での生活に茫漠として明るい少青年時代があるんです。
そのなかで自由を感じる。
「お前は自然児だ」と言われた言葉をずーっと担いで行こうと思っています。