2018年2月20日火曜日

村松喜久則(民謡歌手)          ・東京の民謡を歌い継ぐ

村松喜久則(民謡歌手)          ・東京の民謡を歌い継ぐ
70歳、30年余りに渡って江戸、東京で生まれた民謡を掘り越して、今に伝える活動に取り組んできました。
今迄に300曲近い東京民謡を復活させています。

*多摩川船頭歌  村松喜久則さんの歌
船を縄で引っ張って運ぶときに歌われていたようです。
東京都が昭和56から7年にかけて調査した時に1348曲の古謡があり、神楽謡、童歌、はやり歌を含めてなので、民謡というと800位かと思います。
演出家の岡本愛彦(おかもと よしひこ)先生が日本のオペラを書きたいと云うことで収集して歩いたら、忘れられている状況を見て、我々に歌い継いでほしいと云うことで声を掛けてもらいました。
NHKなどに資料が残っていました。
高齢の方にも取材に行きました。
歌ってもらったものを録音して譜面に落として、三味線太鼓を重ねて行きます。
前、間奏もいれて行きます。
節が違ったりしてどれが正しいのか、整理するのが大変でした。
出来るだけ多くの方の手をかけてもらうように努力しました。

初めて民謡を聞いたときに元気付けられて、これが民謡だと思いました。
東京民謡の特徴
①節の上がり下がりが激しい。(2オクターブ違うものもある)
②旋律が直線的。
③きっぷのよさ、歯切れがいい。
「鮎かつぎ唄」(八王子市の民謡)
 多摩川、秋川で取れた若鮎を天秤棒で担いで10里の道を八王子から四谷見附のつたやという鮎問屋まで届けた鮎担ぎの人がいて、その人たちが歌ったという。
*「羽田節」 東京民謡の3大特徴を持っている。
 漁師街だったので漁師の歌。
*「新宿音頭」
西条八十さんに依頼して作詩が西条八十、作曲が中山 晋平。
戦争中に歌われなくなり、記憶されている方がいて取材して、その後花園神社で毎年踊って今名物になっています。
急激な都市化で民謡の歌が無くなって行きました。
「木遣り」
(労働歌の一つ、木遣り歌・木遣り唄とも。1202年(建仁2年)に栄西上人が重いものを引き揚げる時に掛けさせた掛け声が起こりだとされる事がある。)

今こそ民謡を残さないといけないと思っています。
小学校から歌が好きで、5年の時に少年民謡会の歌声を聴いたときにカルチャーショックでした。
レコードを買ってもらって歌っていました。
大人の民謡会があると云うことで、そこに入って、歌、太鼓など習っていました。
夢中になりすぎて高校受験を失敗して、その後高校の時に役者の世界に入りました。
その後知り合いから紹介してもらって民謡歌手の原田 直之さんの所に行きました。
鳴りもの、音楽理論、発声、歌、日舞などを含めて15人ぐらいの先生に学びました。
18年前、父の借金が1億5000万円になっていて、土地家屋敷を売って、締め切りに追われて寝る間もなくげっそり痩せてしまったこともありましたが掘り起こしの作業をしていました。
一種の使命感が有ったと思います。
民謡の場合譜面が無いので全部自分で書かないといけませんでした。
歌譜、尺八譜、三味線譜、鳴りもの譜など書き込みました。
声なき声、何を訴えたかったのか、隠された歴史、苦しみなどを伝えたかった。

最初のころは歌がうまくなればいいと思っていましたが、今は民謡の価値が判って来て、人生をかけられるものだと思っています。
連れあいと(京極加津恵さん)と芸を伝える教室を作りました。
民謡は暮らし、心などを織り込んだ歴史の証しなのでそれをやっぱり紐とかなければいけないし、歌っていただければと思っています。
結婚当初はああでもないこうでもないとやっていたが、険悪になった時に「ベロベロバー」といって、それにはまいりました。
最近は口論はありません。
民謡の楽しさを最大限に引き出したいと、ミュージカル風にドラマ仕立てをして舞台にかけたりしていましたが、去年から民謡落語に挑戦して、三遊亭円丈師匠に入門して民謡落語を3本作りました。
東京民謡を歌い継ぐ会も今年で35周年になりますので、浅草で公演があります。
民謡に流れる心が、優しさと思いやり、感謝の心、元気に働けることの喜びだと思います、そういったものを伝えたいです。
*「伊勢音頭」
全国ではやったが、神津島迄歌われて、最近はそこでは「神津音頭」という名前に変わりました。