2018年2月27日火曜日

大橋正明(聖心女子大学・研究所 所長)  ・バングラデシュは私の先生

大橋正明(聖心女子大学グローバル共生研究所 所長)・バングラデシュは私の先生
64歳、学生時時代、インドで最下層と言われる差別の子供が学ぶ小学校でボランティアをしたことがきっかけで27歳の時にインドのとなりバングラデシュを中心に活動する日本のNGOシャプラニール、市民による海外協力の会の現地駐在員として赴任しました。
シャプラニールと言うのはバングラデシュの言葉ベンガル語で睡蓮の家という意味です。
水連はバングラデシュの国の花にもなっています。
大橋さんはライフワークとして40年近くバングラデシュを中心に南アジアの貧困問題と向き合ってきました。

著書、「自然体はNGO」で剣道、学生運動、インド、NGO、大学教員、この5つで自分の人生を振り返る事が出来ると記載。
1966年に中学に入り、中学、高校時代は剣道をやっていました。
高校では東京都の団体戦でベスト4に入り、個人戦でもベスト16に入りました。
安保騒動など身近に接していました。
TVも普及してきてベトナム戦争のシーンが放送されて、残酷なシーンが茶の間に放送され、段々こんなものでいいのかという疑問が段々湧いてきました。
大学は早稲田に1972年に入学しますが、ベトナム戦争に代表されるような不正義にもっと関わらなくてはいけないのではないかと言う気持ちが強くなりました。
ベ平連、個人が参加してゆく市民運動があり、72年にアメリカの戦車の修理をやるのに当時の神奈川県知事が道路交通法を使って戦車が県の道路を使って送り返したりするのはいかんと言うことで、それがきっかけでその反対運動が盛り上がって、参加してそれが1年生の時の思い出です。

べ平連系の戦争反対運動をしていました。
学生運動は内ゲバになって行って、そういうグループとは離れていました。
1年先輩の川口さんが自治会を牛耳っている党派と、反対派とのスパイだと云う嫌疑をかけられて、自治会室に連れ込まれて、夜の11時過ぎからリンチされて死亡すると云う事件が11月に起きました。
その遺体が東大病院前に投げ捨てられて、そのことをめぐって学生たちが怒り出して、自治会を牛耳っている党派にたいして、謝罪を求める運動、同時に学内を一つの党派によってコントロールさせることによって他の党派とか、もっと大きな影響力をもったグループが出てこないようにしているのではないかと言うふうに、大学当局がしようとしている
と考えて、村井総長と学生達と直接話し合うと云う交渉をしていました。
出てこないので最終的には授業をしている所に押し入って団体交渉する場所に連れて来て、そこで司会者を務めた、それを新聞に取りあげられたりしました。
自宅にも2度家宅捜索が入って、3週間新宿署の留置所に入りました。
後から考えるとその時の3週間は良かったなと思います。
雑居房に7,8人が入っているところで、暴力団とか窃盗をした人とかいろいろな人がいました。

取り調べにたいして一切言わなかった。
漫画が雑居房に投げ込まれるが、それを読んでいたら、周りからもっと大きな声で読めと言われて、看守が本当はいけないのだが読んでやれと言われ、大きな声で読み始めました。
その人たちは文字を読めないか、読めてもめんどくさい人たちだった。
だから犯罪に関わってしまう、こういう人達がいるんだと云うことに触れたことは良かったと思います。
「川口君糾弾闘争」をやったんですが、大学も変わらず自治会を牛耳る党派も変わらず、多くの人が退学したり、ほかの大学に行ったりしましたが、私は父親の勧めもあってインドに行ってみる事にしました。
ヒンディー語を1カ月集中講義をうけてその時の先生がガンジーの社会改革運動をやっていて、最下層の子供達を教育すると云う全寮制の学校を紹介してもらって、半年間をそこで過ごす経験をしました。(大学3年の時)
場所はブッダガヤ(釈迦が悟りをひらいたと言われる場所)から20,30kmはなれたところでした。
子供達と一緒に寝泊まりしていました。

子供達の家に行ってみると本当に何にもなくて、学校の方がちゃんと3食食べられるから良いんだと言っていました。
改めて知らない世界を思い知らされました。
大学へ4,5,6年と通って、インディー語を学んでいました。
インド政府から奨学金がもらえる事に成り、インドにいきました。
1980年にバングラデシュのシャプラニールに赴任しましたが、1971年にバングラデシュが独立してそれを支援しようとしてNGOシャプラニールが作られて、たまたま同級生が関わっていてそれに誘われました。
バングラデシュは日本の1/4位の大きさでベンガル語を喋ります。
ほとんどがイスラム教徒です。
赴任先には航空券を自分で買って、給料もなしということでした。
生活する場所と食事はくれると云うことでした。
やる事はバングラデシュの最も貧しい人達に識字教育活動を通じて、搾取されていると云う意識化、グループとして助け合って内部で貯金をして内部で貸し合って、高利貸からの搾取を逃れて、最低賃金を守るとか、地方への選挙でも影響力を及ぼすとかで、その人たちの生活が社会的にも経済的にもよくなって行くようなお手伝いと言うことで始めたばっかりでした。

ダッカ(首都)1980年ごろはのんびりした田舎でした。
1982年まで駐在しました。
バングラデシュでは女性に何人産んで何人残っているかと言うふうに聞かないと判らなかった。
72年に50人ぐらいの日本の学生が行って、ノート鉛筆を配ると、バングラデシュを自立してくれるのではないかとやって見たが、現金に替えてしまう人もいて、やり方が間違っている、と云うことで、貧困は村からあるので村に住み込んだが村人に襲われてしまった。
成果が或る程度出てきて、不公平感があったり、部屋は違っても若い男女が同じ家に住んでるとか、宗教的なことなどもあり、こいつら面白くないと云うことになったんだと思います。
識字率向上、食生活の向上など良かれと思ってやっていたことが、向こうの人にとってはどう感じているかということにたいして感性がなかったんだと思います。

最初は物を配って失敗、ボランティアとなって村に入って追い出されて失敗して、バングラデシュ人のソーシャルワーカーの人達が読めない人達にたいして組織化して自分たちの生活をよくすると云うことをやっていったが、結果的にはグループをケアする人たちが必要でそれが150人位に成ったが、ストライキに入って暴力事件に発展してしまう。
150人位を纏める人も若くてマネージメントがうまくいかなかった。
噂がながされたりして首になるのではないかということでストライキに入ってしまった。
私は日本側の団交される側に成って解決にあたりました。
シャプラニールでは日本人が支援すると云うことでお互いに納得しました。
実施するのは現地の人たちが行い、パートナーシップに変えていった。
開発援助のやり方は現地のNGOが中心に成ってやって、外のNGOはそれをサポートすると云うようなやり方が世界的な傾向としてあります。
個人的にはもうやめようかと思うようなときもありましたが、現地の人も変わって行くしサポートして行きたいと思いました。
こちらは良かれと思ってやっても、それはこちらの勝手な思いであって、人間関係は相対的な関係なので援助する側はつい高い位置にあると感じるが、援助の仕方はプロフェショナルにやるべきだし、援助するから偉いんだと云う様な思いは間違いだと思います。

NGOの活動をしているときに、村井総長の息子さんと知り合いに成り、村井先生に逢う機会があり、村井先生から学校への誘いがあり、大学の教員になりました。
あのとき私は逮捕されて人生に挫折してしまうのではないかと思ったが、自分の正しいと思っていることをきちっとやり遂げることの方が私の場合は未来を開いてくれたと思っています。
バングラデシュで中古の毛布を購入しようと思って出かけようとしたら、現地のあるひとから出来るだけ穴のあいた毛布を購入する様に言われた。
尋ねると、綺麗な毛布だと街のゴロツキなどから奪われるから、穴の開いていたほうが奪われずに済み、穴のあいた毛布の方がその人たちを温めてくれると云うことだった。
他にも米のこと(まめを入れる)とか、色々援助の技術の問題を知り得ました。
バングラデシュの人格者とか素晴らしい知見を持っている人たちといっしょにNGOの世界で働けたことは凄く良かったと思います。
開発協力、国際協力をして行くときに、相手の文化、視点と言うものをもっと多様に大事にしてやらないといけない、「相手の地域に愛を持て」と言っています。(涙ぐみ)
自分の尊厳、命は守りたいと思う、それはどこでも同じで、それを国家と言う壁が区別して見えなくしてしまう。
同じ人間じゃないかと思います。
お互いに認め合う、グローバルな市民、グローバルな社会をつくっていかなければいけないと思っています。