2018年2月25日日曜日

竹宇治聡子(旧姓 田中 競泳女子銅メダリスト)・【スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言

竹宇治聡子(旧姓 田中 ローマオリンピック競泳女子銅メダリスト)
・【スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言
1960年 ローマオリンピック競泳女子銅メダリスト。
福岡県の筑紫女学園高等学校3年の時、ローマオリンピック女子100m背泳ぎで銅メダルを獲得、ベルリン大会の前畑選手以来、24年ぶり二人目の女子競泳のメダリストとなりました。
八幡製鉄時代、22歳の時の東京オリンピックでは同じ種目4位でした。
3人のお子さんを育て上げた後、70代半ばの現在まで週4回の水泳教室や、長女の病気をきっかけに始めた喘息の子供の水泳指導は40年も続いています。

孫が8人います。
孫の一番上が20歳になります。
週4回、大人の教室2回、喘息児の教室が2回やっています。
筑紫女学園高等学校2年の時の7月、神宮プールでの日本選手権で女子200m背泳ぎの世界新記録を出しました。
1960年 ローマオリンピック競泳女子は振るわなくて総崩れでした。
日本新記録で予選を通過、9月3日 女子背泳ぎ100mの決勝が行われた。
3コースは田中、4コースはアメリカのバーク(予選タイムでは1番)、2コースはイギリスのスチュワード 、50mのターンでは田中4位、アメリカのバーク1位で到着、2位イギリスのスチュワード 、その後3人が並んでゴール、着順がなかなかコールされなかった。
駄目だと思って、さーっと着替えようと更衣室に入りました。
コーチに呼ばれて出てきたら、3位だとつげられました。
3人が1分11秒4 同タイム タッチの差で3位となる。
当時は目視だった。
ベルリン大会の前畑選手以来、24年ぶり二人目の女子競泳のメダリストとなりました。

1分11秒4は日本を出る前(10日前)のタイムを1秒縮めた。
昭和39年の東京オリンピック、八幡製鉄に入社して22歳になっていました。
期待が集まる。
予選6位で決勝を決めたが、木原選手はいつもより1秒遅れるタイムで予選落ちをしてしまう。
アメリカ デュンケル(世界記録保持者)、ファーガソン(予選2位のタイム)、フランスのキャロン(予選1位のタイム)らの前評判が良かった。
4コースがキャロン、3コースがデュンケル、5コースがファーガソン、7コースが田中。
50mターンがデュンケルがやや早く、他はほとんど同時、その後ファーガソンがトップに出る。
優勝はファーガソン、2位キャロン 3位デュンケル 4位田中(1分8秒6の日本新記録だったが)
3人は16,7歳でした。
75mぐらいから疲れの物質が一杯溜ってると云う感じでした。
「今後も泳ぎますが、レースに出るのは止めます」と云うコメントを残しました。

著書に「あれほどのことをしたんだから、どんな苦労にも耐えられると、その後の人生の自信になった」と書いています。
練習をするときに切磋琢磨しながら練習しないと、結果がなかなか出にくい。
最初八幡製鉄所では強化選手としては女子は私一人だったので、男性の平泳ぎと一緒に練習しました。(ほぼ同タイムの状況だった)
仕事を終わって5時から泳いだので練習量は多くはなく効率的な練習を考えました。
冬は別府の温泉プールに行くこともできますが、そこにはいかずに陸トレで、ほとんど泳ぐことはありませんでした。
正月休みなどでは、温泉プールなどで合宿はしましたが。
君原選手も八幡製鉄所で、伴走車に乗せてもらって、苦しんで走る姿なども見せてもらいました。

昭和17年長崎県佐世保市に生まれ、熊本県嘉島町に移りました。
灌漑用水用の手作りの流れているプールがあり、そこで泳いでいました。
嘉島町の中学で水泳部に入り、1年の夏、熊本県大会が有り、50m、100mの背泳ぎでいきなり優勝しました。
2年で50m、100mで中学日本新記録。
昭和33年に筑紫女学園高等学校に入学。
高校1年の5月の時に東京でのアジア大会 100m背泳ぎで1分15秒3の日本新記録を出して2位に10m近く離して優勝。
足首が柔らかいので、水が上手に扱えると云うことだと思います。
負けたくないと云うことが根底にあると思います。
東京オリンピックの時の精神状態は普通ではなかった、押しつぶされそうだった。
17歳の時に出した2分37秒1の世界新記録、18歳 ローマオリンピック代表選考会で出した、2分33秒3の世界新記録は200m。
得意は200mだが、ローマ、東京大会は200mは無かった。
次のメキシコ大会から正式種目となる。

周りからの要請もあり昭和41年のアジア大会に出場、100m背泳ぎで3連覇して引退、昭和42年元バレーボールの選手、監督だった竹宇治清高氏と結婚、会社も退職する。
3人の姉妹をもうけるが、長女が喘息を患って、これをきっかけに水泳の指導を始めることになります。
医師から喘息の子は泳いだ方が良くなると云う話を聞かされて、福岡に夫が転勤になり、
福岡市内のプールを借りられるようになり、重症の喘息の子供達を集めてスタートしました。
病院の先生、看護師も発作が起きた時の為に水着になってもらって、治療しながら練習もできるようになりました。
全国に広がって病院内にプールを作ってもらって、治療を続けられるようにもなりました。
プールには埃もなく、泳いでいる間にどうしても水を飲む(喉の洗浄)、水は温かいので、泳ぐと云うことは発作が起きにくい場所で起きにくい運動をすることになる。
昭和52年に初めて40数年に成ります。
江戸川区で区長さんと知り合いに成り、こちらでも即刻やりなさいと云うことになりました。
週4回、大人の教室2回、喘息児の教室が2回やっています。
続けてやると云うことが大事なことです。
60年以上水泳に関わってきました。
75歳代のマスターズ水泳大会で世界記録を出すことができました。
オリンピックのころは泳ぐのが怖いと云う経験がありましたが、今は泳ぐのが楽しくてしょうがないです。