頭木弘樹(文学紹介者) ・【絶望名言】向田邦子
*2011年2月22日の初投稿以来、本ブログもまる7年が経過しました。
22日に書こうと思っていてつい忘れてしまいました。(う~ん 歳かな?)
相変わらずKさんには誤字、脱字等チェックして貰って感謝します。
今後も体調に気を付けて続けていこうと思いますので、宜しくお願いします。
「じいちゃんは悲しかったのだ。 生き残った人間は生きなくてはならない。
生きるためには食べなくてはならない。 そのことがあさましく悔しかったのだ。」
(昭和52年 ドラマの「冬の運動会」のセリフ 向田邦子)
昭和4年(1929年)生まれ。 (アンネ・フランク、グレース・ケリー、オードリー・ヘップバーンも同じ年生まれ 生きていれば88歳)
TVドラマのシナリオ、エッセー、小説など多才。
当初「時間ですよ」とかコメディータッチのホームドラマを書いていたが、大きな病気をして手術をして、その時の輸血が原因で肝炎に成って、そして右手が動かなくなってしまう。
「厄介な病気を背負い込んだ人間にとって一番欲しいのは普通と云うことである。」
(エッセー「父の詫び状」のあとがき)
普通は普通だけに失うと、本当にきつい。
「誰にあてるともつかない、暢気な遺言状を書いておこうと思った。」
その時はもう右手が使えないので左手でゆっくり書いたそうです。
この連載が本に成ったのが最初のエッセー集「父の詫び状」。
TVドラマにも復帰して、もっとシリアスなものを書きたいと思ったようです。
それが「冬の運動会」と言うドラマです。
お爺さんが愛する人を失って、凄く悲しんでいる。
何も食べようともせず、泣くことさえ出来ずにいて、周りの人が心配して食べなければ駄目だと無理やり勧めて、今ばててしまうと葬式にでれないと言って、無理やりのり巻きを食べさせるが、のり巻きを食べ始めたときにおじいちゃんの眼から初めて目からぽろぽろ涙が出てくる。
なんで泣きだしたんだろうと思うと、その時に孫が、内心の言葉として「じいちゃんは悲しかったのだ。 生き残った人間は生きなくてはならない。
生きるためには食べなくてはならない。 そのことがあさましく悔しかったのだ。」
とつぶやくわけです。
食べることと言うのをあさましく悲しい、ととらえて、それが悔しい。
一方で生きていくという意欲だし、生きる力だし、いい面もあるが、一方で生き残って行くと云う悲しさでもある。
生きてゆくと云うことは、大切な人が死んでもお腹がすくし、食べ物がおいしいと云うことでもあり、なかなか気付きにくいことでもある。
食べられない悲しさと言うものもある訳で、それを書いた向田さんは凄いと思います。
病気後の心境の変化を「あのころ(元気な頃)持っていた疲れを知らない体力やむこうみずは無くした。 その代わりあの頃判らなかった、人の気持ちが少しは判るようになりました。」と向田さんは言っています。
その後「阿修羅のごとく」、「あ、うん」、シリアスなドラマとか小説を書いてゆく。
「自分でも納得してきっぱり別れたつもりでいるでしょ。 思いきって遠くの土地へ行って新しい仕事を始めて昔の暮らしをすっかり忘れたつもりでいるでしょ。 そうはいかないのよ。 体の中に残っているのよ。」
(昭和53年のTVドラマ 「家族熱」からのセリフ)
離婚してひとりでお店をやっている中年の女性のセリフ
別れた妻が久し振りに元の夫の家族の近所に戻って来る。
復縁したい気持ちがどんどん強くなって、ついには精神を病んでしまうと云うドラマ。
不倫関係を清算しよう言うカップルがやって来て、話し方のコツを聞く訳ですが、教える資格はないと言って、「自分でも納得してきっぱり別れたつもりでいるでしょ。 思いきって遠くの土地へ行って新しい仕事を始めて昔の暮らしをすっかり忘れたつもりでいるでしょ。 そうはいかないのよ。 体の中に残っているのよ。」という訳です。
心から家族を求めてしまう、それはまさに熱みたいなものでまさに家族熱と言うことです。
家族は温かさ、温もり、かけがえのないものと捉えられるが、うっとうしい、そこから逃れたいと思っている人も結構いる、家族とはそういう存在でもある。
家族を失った時の執着は元気なころは気が付かないが、段々歳を取って来て孤独になった時にどうかは結構厳しいものがあると思う。
家族は特別な人、もし家族がいないとしたら、孤独はとてつもないものだと思う。
友達とは仲たがいした時にそれっ切り疎遠になることもあるが、家族はきってはきれないところが有って、倒れたって知るものかと思っても、そこには憎しみ、いざこざとか特別なものがあり、それがまったくない孤独と言うものは凄いことだと思う。
入院していると、新しい人との出会いはない、今までの知り合いが来てくれるが、それも縁遠くなってゆくと、孤独におちいるだろうなあという予感があったが、凄く怖いことでした。
孤独に耐えている人は一杯いると思うが、そういう人は家族をうっとうしいと思っている人は贅沢だと思っているかもしれない。
家族の為に本当に酷い目に遭っている人もいるかもしれないし、いなかったらどんなに幸せだろうと云う人もいる訳で、いずれにしろ何らかな強い感情がそこにある訳で、それがまったくない寂しさはそういう人しか経験しない恐ろしいことかもしれない。
「おふくろが握っていたのは果物ナイフだった。 うちで一番切れないリンゴの皮もむけない果物ナイフだった。 さびしくて辛くてとても生きていけないと思って、しかし本当に死ぬには未練がありすぎて、本当は皆に止めてもらいたくて、死んだふりをして、死んでしまいたい気持ちを誤魔化して、きっと生きて行く。」
自殺未遂で本当に死ぬ気がない、そうすると非難される。
しかしほとんどの人は生きたいと死にたいとの間のゾーンにいるのではないだろうか。
どっちかにきっぱりしている人はむしろ少ないと思う。
云うことでちょっと違ってくると思う、「死にたい」と云うことで条件が良くなる訳ではないが、言わずに押さえておくよりは、多少の効果はあるのではないか。
*アン・マレー 「辛い別れ」(向田さんのドラマ「幸福」の主題歌)
「あれ、何て言ったかな。将棋の駒をぐしゃぐしゃに積んでおいて引っ張って取るやつ。
一枚駒をとると、ずずずーっと崩れるんだな。
おかしな形はおかしな形なりに均衡が有って、それが皆にとって幸せな形ということもあるんじゃないかなあ。」
(昭和55年~56年TVドラマ「あ、うん」の中のセリフ)
二人の男の友情を周辺の家族などを交えて描いている。
二人の友情、家族とかが絶妙なバランスの上に成り立っている。
本来ばらばらになってしまうような、嫉妬とか劣等感がむしろ皆を結びつけている。
みんな家族の理想像に向かっているような感じがするが、そう思い過ぎるとかえって家族のバランスが崩れることもあるんじゃないかと思います。
おかしなバランスでもいいんじゃないかなあと言う発想を持つのは結構難しいと思うが、大事だと思います。
ふさわしい人生を生きると云うこと自体が難しい、どこかでふさわしくない人生を生きていると思います。
理想とは違うかもしれないけれど、だから気づくこともある。
おかしなバランスのまま何とかやり過ごすのを駄目だと思わない。
「人間なんてものは、いろんな気持ち隠して生きているよ。
腹立ち割ってはらわたさらけ出されたら、赤面して顔をあげて表歩けなくなるようなものを抱えて、暮らしているよ。
自分で自分の気持ちに蓋をして知らん顔してなし崩しに誤魔化して生きているよ。」
(昭和55年~56年TVドラマ「あ、うん」の中のセリフ)
気持ちが通じないとか、孤独感があるとか良く言われているが、本当に皆気持ちを伝えようとしているのかなあと、本当の気持ちは伝わらないように努力しているのではないかと思うんです。
そのために会話しているのではないかと思います。
本音を隠しながら生きている。(本音を伝えないように語る)
向田さんの「言葉が怖い」という講演会で
「言葉は恐ろしい。 たとえようもなく気持ちを伝えることのできるのも言葉だが、相手の急所をぐさりと刺して、生涯許せないと思われる致命傷を負わせるのも又言葉である。」と言っています。
台湾の飛行機事故で亡くなりますが、もう40年位になります。
自分では見られない自分の後姿を見せられるような、そんな感じのする、それが向田さんのドラマかもしれない。