2018年2月2日金曜日

岩田喜美枝(21世紀職業財団会長)    ・ラジオが元気の源

岩田喜美枝(21世紀職業財団会長)    ・ラジオが元気の源
岩田さんは1971年に労働省に入られてから、官僚としても民間会社の経営者としても常に働く女性のパイオニアとして活躍してこられました。
現在も21世紀職業財団会長や民間会社の社外取締役を複数兼務するなど、多忙な毎日を送る岩田さんにとってラジオはどんな存在なのか、これまで先頭に立って働く女性のために歩んで来られた仕事を含め伺いました。

21世紀職業財団は一言でいえば、企業などでダイバーシティ(Diversity 多様な人材を積極的に活用しようという考え方)の推進する事のするお手伝いをする、と云うことになります。
理念は、あらゆる人がその能力を十分に発揮しながら、健やかに働ける環境を実現する。
キャッチフレーズが「多彩な力が生きる社会に」となっています。
人は性、年齢、国籍など多様性があります。
体力の制約がある中で頑張っている方、職歴が違うとか、違いがありますが、それを理由に差別はしてはいけない。
土壌として多様性が大事だと云うことでそのお手伝いをするという団体です。
女性が職場でもっと活躍するためにはどうしたらいいか、育児介護などの時間制約のある方、病気で治療しながら仕事を続けている方等、制約がある方が職場で活躍してもらう為にはどうしたらいいかとか、長時間労働が当たり前とか、労働時間管理などもっとフレキシブルにした方が一人ひとりの能力が発揮しやすくなるのではないかとか、ハラスメントが認識される様になったがそれがないようにするとか、企業のお手伝いをしています。

今年で32年になります。
男女雇用機会均等法が施行され、職場で実現するためのどうしたらいいかという戸惑いがありました。
1986年に法律の施行と同時に出来ました。
最初「女性職業財団」と言う名前でスタートしました。
2012年私が会長として就任することになりました。
女性だけの問題では終わらないで、全ての人のワークライフバランスが実現できるように働き方をどう変えていったらいいか、ハラスメント全体にもかかわるようになっています。
子育てをしながら仕事を続けられるようにするにはどうしたらいいか、と云うことがワークライフバランスの最初のテーマでした。
仕事以外にやらなくてはいけないことを皆持っているので、限定した問題から全ての人に対してどうしたらいいかというふうに広がっています。

1971年労働省に入る。
当時、結婚退社が当たり前の時代だったが、ずーっと仕事をしたかったので民間では無理だと思いました。
労働省に婦人少年局が有ったので、女性が活躍しやすいところでここだけ毎年取っていたので採用されました。
10年単位で振り返って見ると、随分女性が活躍しやすい環境になったと思います。
男女雇用機会均等法は一番思い出深いことで、課長補佐として立法する作業の一員としてかかわりました。
検討から成立するまで10年近くかかっていますが。私は3年数か月関わりました。
そこに関われたことは幸せだったと思います。
女性は弱い存在だと云う保護規定が有って、それが逆に活躍の障害になったり、差別をする理屈に使われるような面があったと思う。
そのため労使の対立はおおきかったです。

2001年に厚生労働省の初代雇用均等・児童家庭局に就任。
行政改革で労働省の婦人局と厚生省の児童家庭局が一緒になりました。
内容は近いがベクトルがなかなか合わなかった。
保育の問題と社会福祉の問題とか、あり難儀でした。
その後退官して第二の就活をしました。
企業で働く気持ちが強くて、女性社員が多い化粧品メーカー資生堂に就職しました。
公務員時代は男性社会の中でやってきたので、いかに同化するか無意識にやっていました。(服装も黒っぽい地味な服装)
会社に入ってみると女性の方がおしゃれで個性的で人と違うことがいいことだと云う社風でした。
男性もおしゃれでした。

1990年代に福原さんが社長を10年位されて、その時に仕事と子育てについて先進的に手を打った。
結婚、出産退職は無くなって、配偶者が転勤になると辞めると云うことがありましたが、同じ地域に転勤するなどの手を打ちました。
キャリアアップの面ではまだまだでした。(管理職に占める割合は10%程度だった、当時の日本では高かったが。)
女性にたいする育成が足りなかったと思います。
2013年(10年後)には抵抗もありましたが、女性管理職を10%以上にするという目標を設けて、能力次第で登用する方向で進めることにしました。
2008年に資生堂の副社長になる。

現在家族は夫と二人で、娘たちは独立しています。
子育て時代は保育所だけではだめでベビーシッターを雇って対応したり色々なことが大変でした。
大変だったが幸せでした。
実家は香川県で母親は妹が面倒を見てくれて、妹の負荷を考えて私は度々行くようにしました。
元気を与えてくれたのがラジオでした。
20年ぐらい使っています。
特に子育て、介護などの時にはゆっくりできなかったので、ラジオを通じて世の中の情報を知りたかったし、癒されたいと思っていつも身近にありました。
今は夜も聞いていてラジオ深夜便もよく聞いています。
11時台の「ナイトエッセー」と早く目が覚めたときには「あすへの言葉」は良く聞いていて一番好きです。
それには松原亘子さん、労働省の事務次官でしたが、出ておられました。
他に医師の友達、坂東眞理子さん、藤原智子さん(2008・11・18、19に出演 「蘇る記憶の中の人々 記録映画に魅かれて」 )等が出ていて、知っている方が出ていて私自身の誇らしい気持ちにもなりました。

映画「ベアテの贈りもの」、ベアテ・シロタ・ゴートンさん 日本国憲法の女性平等に関わる。
GHQが起草段階で関わるが、そこにベアテさんがいて、父親がレオ・シロタという有名なピアニストで山田耕作さんに乞われて日本に来て、ベアテさんが生まれて少女時代を過ごした。
太平洋戦争になり、ベアテさんはアメリカの大学に留学していて、帰れなくなり、両親は日本にいて、戦後日本に文族というステータスで来て、両親とも再会できて、起草段階でなんとか日本の女性のために良い憲法をつくりたいと云うことで、男女平等、家族の条文の処の下書きをした人でした。
記録を撮り残したいと言うことで映画製作委員会ができて、赤松良子さんが会長で私が事務局長で藤原さんに監督をして貰って、映画を作ったのが2004,5年ぐらいでした。
藤原さんも結婚、出産などで長い間仕事を辞めていました。
60代になってからまた本格的に仕事を始めました。
その映画の時は70代で、凄いと思いました。
資生堂を64歳で辞めて70歳で色々なことも引退しようと思っていたが、80代で活躍している人もいるのでそうは言っていられないと思います。