2018年2月5日月曜日

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)    ・【近代日本150年 明治の群像】上村松園

本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・【近代日本150年 明治の群像】上村松園
講談師 神田蘭
明治の美人画家の第一人者、はがねの様な女性。

講談に依る紹介
上村松園は明治が生んだ女流日本画家の先駆者、女性初の文化勲章を受章。
明治8年京都の茶屋(お茶っ葉を売る)に生まれる、名は「上村 津禰(うえむら つね)」。
生まれる2カ月前に父親が他界、母親は再婚することなく女手一つで育てる。
小さいころから絵を描くことが好きで、小学校を卒業後日本初の画学校に入学するが、物足りなさを感じ、翌年学校をやめて鈴木松年に師事する。
松園という雅号を貰う。
女に学問いらないと云うのが当時の風潮で親戚など周りが反対するが、母親だけは違っていた。
母親は絵の才能を伸ばしてあげたいと思い、支えて行く。

15歳の時に第3回内国勧業博覧会の時に「四季美人図」を出品、これが英国王子のお買い上げとなり、天才少女現れると一躍脚光を浴びる。
画家としての力を上げるため師匠を変えて行く。
当時は女性への偏見差別がかなりあった。
明治37年、第9回新古美術展に「遊女亀遊」を出品するが、何者かが落書きをする。
(*亀遊は異国人相手に身を任すことを潔しとせず、辞世の句を遺して自害。
 「露をだにいとふ大和の女郎花 降るあめりかに袖はぬらさじ」)
事務局が落書部分を書き直すように指示するが、落書きされたままを出品する。
後年「戦場の軍人と同じ血みどろの戦いでした」と口述している。
61歳の時「序の舞い」を完成、「何物にも侵されない女性のうちにひそむ強い意志をこの絵に表現したかった。 一片の卑俗なところも無く清澄な感じのする香り高い珠玉の様な絵こそ私の念願するものなのです。」
「序の舞い」は彼女自身を描いたものかもしれない。

明治時代にプロの画家を目指すことは特に珍しい。
現代でも女性にたいしては厳しい対応をすることがあるのに。
明治8年京都四条通御幸町の葉茶屋「ちきり屋」の次女として生まれた。
母親は女手一つで育てるが、この時26歳。
母親の考え方がすごかった。(絵を描くことを応援する)
明治14年小学校に入る。
明治20年京都府画学校に入学、四条派の鈴木松年に師事。
明治23年  第3回内国勧業博覧会に「四季美人図」を出品一等褒状受賞(この絵を、来日中の ヴィクトリア女王の三男アーサー王子が購入し話題となった)。
明治26年  幸野楳嶺に師事。亡くなると竹内栖鳳に師事。
明治33年 日本美術院展で『花かざり』が銀牌(三席)
明治35年 長男・信太郎(上村松篁)が誕生。未婚の母となった松園は多くを語っていない。(27歳)

大正8年 「焔(ほのお)」 を出品 
(*謡曲「葵の上」に想を得て源氏物語に登場する六条御息所の生霊を描く。美人画作家といわれる松園の作品の中では異色の主題。髪の端を噛んで振り返る青い顔には嫉妬に翻弄される姿が現われ,白地の着物に描かれた清楚な藤の花にからむ大きな蜘蛛の巣が,執拗な怨念を不気味に暗示させる。嫉妬の化身となった生霊を品格を損なわずに造形化した本図は,近代日本画の水準を高めたと評価される松園の実力を鮮やかに証明している。)
中年女の嫉妬の炎、一念が燃え上がって炎のように焼けつく形相を描いたものです。
最初は「生霊」としたかったが、相談して「焔(ほのお)」 と決めました。
行き詰まった時、仕事の上でどうにも成らなかった時には思いきって大胆な仕事をするのも局面打開の一策と成るのではないでしょうか。
あれは今思い出しても画中の人物に恐ろしさを感じるものがあります。
次に描いたのが「天女」で「焔(ほのお)」とは正反対。

大正11年「楊貴妃」
昭和9年  母・仲子死去。(86歳)
第15回帝展に「母子」を出展、母性愛にあふれる感じの絵(59歳)
(*第十五回帝国美術院展覧会出品作で、班竹の簾を背景に、眉を剃りお歯黒をした女性が幼児を抱き上げ慈しむような視線を向ける様子を、ほぼ等身大に描く。明治期京都の町家の婦人の姿であり、幼児の無垢で純真な性質と、美しくも安心感のある母親の頼もしさを表現する。)
母の男勝りの気性は多分に私の内にも移っていった。
私も又世の荒波と戦って独立して行けたのは、母の男勝りの気性を身内に流れこませたからであろう。
母は決然と身を粉にして働いてくれ、一生懸命に絵を描くようにといってくれた。
私の母は私を産んでくれたとともに、芸術までも産んでくれたのである。

昭和11年 「序の舞」を出品 (61歳)
(*「序の舞」は文部省招待展に出品され、完成度・格調ともに優れて世評高く、政府買い上げとなった作品で、現代の令嬢が謡曲を舞う姿を描いている。)
私の作品の中でも力作です。
この絵は私の理想の女性の最高のものと言っていい、自分でも気に入っている女性の姿です。
ごく静かで上品な気分のするものでありますからそこを狙って、優美な中にも毅然として犯しがたい女性の気品を描いたつもりです。
息子の嫁をモデルにして構図を取ったものです。
(*1965年(昭和40年)発行の切手趣味週間の図案に採用されている。)
昭和23年 女性として初めて文化勲章を授与される。
昭和24年 肺がんで死去。(74歳)

東西美人画の名作と言う展覧会が3月から行われる。(3月31日~5月6日迄)
東京芸術大学大学美術館。