2018年2月8日木曜日

佐藤剛(作家・音楽プロデューサー)    ・日本発のスタンダードナンバーを

佐藤剛(作家・音楽プロデューサー)    ・日本発のスタンダードナンバーを
1952年生まれ65歳、音楽業界紙の営業、編集に携わった後、音楽プロデューサーとして、甲斐バンド、THE BOOM、中村一義、小野リサなど数多くのアーティストの作品、ライブ、イベントをプロデュースしてきました。
2011年に最初の著書「上を向いて歩こう」を出版した後、活動の中心を著述に移して、2014年に「黄昏のビギンの物語」、去年は美輪明宏の「ヨイトマケの唄」を出版、後世に歌いつなげるスタンダードナンバーがどのように生まれたのかを明らかしました。
佐藤さんご自身の音楽活動の道のりと日本のスタンダードナンバーへの思いを伺います。

「阿久悠と歌謡曲の時代」を連載、半年になります。
週一回で1週間に原稿用紙で25枚相当になります。
それ以外に3本位連載を書いています。
1週間のうちに6日間、12,3時間は原稿を書いています。
朝4,5時に目が覚めて直ぐ仕事を始めて昼まで執筆します。
午後は雑事の対応もして、夜は人と会ったりコンサート観たり、資料を読んだりしています。
中学生になったころからなんとなくプロデユーサーをやりたいと思いました。
音楽が好きで聞いていましたが、新しい曲では誰が作詞作曲、企画、何処で誰が演奏しているのかなどに興味がありました。
裏方の方に興味がありました。
学生時代からコンサートをプロデュースしていました。
1970年に入学して最初の2年間は学校が無かった時代(ロックアウト)でした。
自己流に社会勉強していて、映画、音楽を研究してコンサートを開いたりしました。
大学卒後音楽業界誌、ミュージックラボに入ることになりました。
3年で辞めさせてもらて、甲斐バンドを引き受けることになりました。(マネージメントとプロデュース)
自分にとって近さも感じました。

甲斐バンドはデビュー3年目の頃の時でした。
「アンナ」をプロデュースして大ヒットになりました。
主語の変更から始めました。(「僕」(子供っぱさがある)から「俺」へ)
10年ぐらいやって、一旦音楽は撤退しようと思いました。
作家、漫画家のページェントとマネージメントをやろうとおもって新会社を作って、仕事を始めました。
マイケルジャクソンが1987年、ムーンウオークの自叙伝を出して、翻訳、装丁などを引き受けました。
THE BOOMと云うバンドとの出会いがあり、新しい音楽の世界へ旅をすることが出来ました。
沖縄音楽、アジア、中南米の音楽とかに出会って、バンドのメンバーと関心が向いて行って、新しい人との出会いがあり、沢山の音楽との出会いがありました。
東南アジア、台湾、沖縄、色んな新しい発見がありました。
「島歌」は、僕にとって神様が降りて来るような歌でした。
キューバ、ブラジルでも同じ様に神様が降りて来るような感覚があり、得難い体験をずーっとしてきました。

歌は結局訴えなので、言葉にならない思いが有るわけだからリズム、メロディー、ほかの楽器との共鳴で表現するので、言語は違って判らなくても、歌っている感覚と何を訴えて聞けるのかということはそんなに間違わない。
喜び、悲しみなど伝わってくる感覚は音を付けてみれば判るような感覚だと思います。

経営者になると云うことは全くありませんでした。
音楽を目指す為の人のために、音楽をやっている人のために、役立つことを自分なりに何か書いたり形にしたいなと思っています。
音楽プロデューサーとしてやり残したことはないと思っています。
「上を向いて歩こう」を調べたのも、日本語の歌なのにアメリカで1位になったのかだれも正確に言えなかった。
どういうシステムでどういう流れでアメリカで100万枚売れたのか、誰もしらなかった。
調べて行ったらきちっと裏で仕事をしていた人たちがいる、このメロディー、リズムは世界で通用する音楽だと云うふうに判断した人がいて、楽譜など世界の出版社に売り込んで実際にカバーされてヒットしてから、オリジナルに火が付いた訳です。
きちっとやっていた人がいなければこういった奇跡は起きないんですね。(裏方)
広まって行くためにも伝達の仕方によって、良くもなれば失敗もするので、或る楽曲について情熱をもってやってくれる人がたくさん出てこないと、こういう奇跡的な歌は生まれないと云うことが分かったわけです。

日本にもいい歌がたくさんあるが、なされていないだけで、そういったことをやってくれる人が増えてくればいいなあと思って書いたり人前で話したりしているわけです。
「上を向いて歩こう」は1961年に日本でヒットして、63年に世界でヒットして80~81年でもう一回世界でヒットして、1994~5年にかけて世界でヒットしている。
300年前、200年前にヨーロッパでも沢山歌われたが、限られた数しか残っていない。
ヴェートーベン、バッハ、モーツアルトなどの歌が何で残っているのか、となると、常に様々な時代に様々な音楽家がそれを解釈に依って演奏したり歌ったり記録したり、手を加えながら色んな事をやって来たから生きている。
日本の歌謡曲、ポップスだって同じことかなと思いました。
その時代の人しか受け取れない感覚はあると思うので、新しいエネルギーだったり新しい生命力を吹き込んでもらうことに依って、生きてくる歌はたくさん眠っていると思う。
世界中がインターネットでつながって来ているので、良い歌、作品を見つけ出して、ぴかっと光って気が付く人が出てくると言う状態に持ってゆくことは必要だと思っています。
「黄昏のビギン」30数年ほとんど誰にも歌われないままで居たが、ちあきなおみさんによって歌われたことで良い歌だと感じて、大変な数の人に歌われて、いまでは日本のスタンダードナンバーの5本の指にはいるかなあと言うことになっている。

「ヨイトマケの唄」は1963年NHKの「夢で逢いましょう」で歌ったのを聞いて、吃驚した覚えがあります。
その後桑田 佳祐さんとか色々な人が歌ってきました。
名曲は個人のもので、スタンダードナンバーは良いと思う人の共有感覚と云うものがスタンダードナンバーを生んでいくと思います。
ランキングに入ってこなかった歌でも、そのうちにクラシック的な扱いになっている、それがスタンダードナンバーの条件だと思います。
技術を越えた多くの人の心みたいなものが何かの瞬間に凝縮された時に出来上がった結晶みたいなものが素晴らしい歌だと思いますが、常に水や光を与えていないといけないものが歌だと思っていて、そういった総合力の成り立ちを広めていけば世の中に潤いが生まれるのではないかと思います。
そういう音楽を見付けて伝えて、物語を解明してと云う仕事をやって行きたい。