2018年2月12日月曜日

原田雅彦(雪印メグミルクスキー部監督)  ・【“2020”に託すもの】どこまでも遠くへ、自分らしく飛べ!

原田雅彦(雪印メグミルクスキー部監督)・【“2020”に託すもの】どこまでも遠くへ、自分らしく飛べ!
オリンピックのスキージャンプでは長野大会での団体金メダルなど3つのメダルを持つ、原田さんに伺います。

平昌冬季オリンピックの解説者としてなるべくどういうふうに飛んでいるのか、判りやすくと云う説明をしたいと思っています。
1968年5月北海道上川町で生まれる。
東海大学第4高校、1987年の雪印乳業に入社。
現在は雪印メグミルクスキー部監督をしていて、全日本スキー連盟の理事もしています。
1992年アルベールビル、1994年リレハンメル、1998年長野、2002年ソルトレイクシティ、2006年トリノの計5回の冬季オリンピックに出場。
リレハンメルオリンピックで団体で銀、長野オリンピック 個人で銅、団体で金を獲得。
世界選手権を合せると9個メダルを獲得。
ジャンプを始めたのは、10歳小学校3年生でした。
札幌オリンピックの強化のために子供のジャンプ台が上川町にありました。
好奇心から飛びたいと思って入って行きました。
最初に飛んだ時には多分4~5mだったと思いますが、飛んだと思いました。
もっと飛びたいと直ぐ思い、私のスキージャンプ人生は始まりました。
1972年札幌オリンピックが有ったが記憶にないです。(4歳)
笠谷選手の歴史を知って凄いなあと思いました。

ジャンプがV字に変わって行くが1991年夏に変えて行きました。(アルベールビルオリンピックの前年)
最初変えるには怖かったが距離の伸びる感じが違いました。
1994年リレハンメル、団体戦で西方仁也 、岡部孝信 、葛西紀明、原田雅彦、のメンバーで1回目では日本はトップ、2回目のアンカーが私でした。
メダルは取ったことが無かったので、取れるのではないかと思っていました。
知らず知らずに1位のプレッシャーがかかってきたと思います。
飛び出してすぐに距離が伸びないと判りました。
順位が2位となった時には頭が真っ白になりました。
3人が寄って来て、肩を叩いてくれて、「良かったじゃないですか、2位になったんだから、胸を張りましょう」と言ってくれて、その言葉がなかったら今でも頭を抱えていました。
素晴らしいチームメイトだと思いました。
周辺から色々ありましたが、スキーで見返しをするしかなかったので、原田は頑張っているなと見せたかったが、焦りが有ってなかなか復活できなかった。

長野オリンピック、ノーマルヒル 1回目トップ 2回目で5位 ラージヒル1回目6位
風が難しかった。
強化合宿をして風のことも色々研究はしてきましたが、難しかった。
自分らしく飛ぼうと思って飛びました。137m飛びました。(悔いはなかった)
ラージヒルで銅、団体で金メダルを取ることが出来ました。
舟木選手はアベレージを出すのには低いジャンプが理想で、今もそうです。
私は数少ないチャンスをどうやって勝利に結びつけるかと、違ったタイプでした。
団体戦 1回目79.50m、雪が降って助走のスピードが奪われてしまいました。
2回目 競技が出来るかどうかという状況だった。
今回は金メダルを取れると云う状況できたが、1回目の結果は4位だった。
2回目が行われなければメダルを取ることが出来ない状況だった。
2回目が行われることになり、岡部選手137m、斉藤選手も凄いジャンプをした。
二人に助けられました。
2回目は向かい風も吹いていて、雪も降っていなくて、思いきって飛びました。
飛び出したときに物凄く距離が延びると思いました。
自分のジャンプを終えてホッとしたと云うのが正直なところです。(プレッシャーから解放されて立っていられなかった)
舟木選手が飛んできて、「ふなき〜ふなきい…」に関しては、インタビュアーに「今は船木が飛んで金メダルを取れるから一緒にみようよ」と言いたかった。

後輩には、自分らしく飛んでほしいと思います。
最後は自分はこうなんだと、飛ぶ人が必ず結果を出すと思います。
歴史が繋がって行くのは、その間に沢山の先輩後輩たちが歴史を繋いでいるので、いろいろドラマがあるが、感動させてくれる。
東京オリンピックが2020年に行われるが、凄いドラマ、歴史が生まれることを期待しています。