2018年2月21日水曜日

松倉久幸(浅草演芸ホール・東洋館 会長) ・浅草芸人のおとうさん

松倉久幸(浅草演芸ホール・東洋館 会長) ・浅草芸人のおとうさん
浅草と言うと大衆芸能の中心地、その浅草で笑いの殿堂「浅草演芸ホール」を率いているのが会長の松倉久幸さんです。
戦争で焼け野原になった浅草に大衆芸能を復活させたのは、松倉さんのお父さんですが、松倉さん自身も子供のころから楽屋に出入りするなど、浅草の演芸に親しんできました。
昭和30~40年代はTVの普及で浅草の演芸は低迷期を迎えました。
そういう中で父親から引き継いだ松倉さんは地元のミニコミ誌に売り込んだり、そばや寄席を開くなど地道な努力を積み重ねながら浅草の大衆演芸を盛り上げて来ました。
松倉さんが経営する小屋からは、渥美清さんや、萩本欽一さん、ビートたけしさんなどが育っていって、現在のお笑いの隆盛に繋がっています。

今年82歳。
小さい時から呼び込みをやっていたので声が鍛えてあります。
最近のお客さんは女性が多いです、そうすると子供も来ます。
浅草の場合は新作が結構受けます、後半は古典落語をやってうまく分けています。
戦争が終わって、浅草寺も丸焼けでしたが、復興は早かったです。
劇場、映画館もたちました。
私どもの出身は長野県の上田なんです。
父親がランプ屋をやっていたが、明治に電気が入って来て、ランプ屋の営業がなりたたなくなって東京に出て来ました。
元々父は演劇が好きな人でしたので、浅草演芸ホールの前身の三友館と言う映画館が有りまして、そこに勤めました。
事務員から支配人になりましたが、建物も焼けてしまって、当時は戦争に負けたばっかりで、建物を建てるのにもGHQの許可をもらわなくてはいけなかった。
GHQの許可を貰って建てることになりました。
建てるのにも資材が無くて知り合いが気仙沼出身で木材を気仙沼から運んで2階建ての劇場を造りました。(昭和22年8月15日)

浅草にロック座がオープン。(浅草の六区)
当時は女はもんぺ姿だったが、肌を見せて凄い入りでした。(動いてはいけなかった。)
山形出身の伴淳三郎がコメディアンとして入って来て、お芝居が1時間、ストリップショーが1時間半でしたが、お芝居が出来ると云うことでやっていたら、そのうちお芝居がメインになってしまった。
伴淳三郎を目指して、色んなコメディアンが集まってきました。
23年には永井荷風が来ました。
永井荷風が来ると若い女の子を食事につれて行くので、踊り子たちは永井荷風が来ると喜んでいました。
昭和30~40年代はTVの普及で浅草の演芸は低迷期を迎えました。
客はほとんど来なかった、どん底でした。
昭和43年、33歳の頃、
芸人さんも生活が苦しかったですね。
食堂の人も出世払いでいいと言って食事を食べさせてあげたりしていました。
小屋の仕事がはねてからキャバレーで仕事をやったりしていました。
坂上次郎は歌も上手くてキャバレーで良くやっていました。
ビートたけしも何にもできませんと言っていたが、最初に教えたのがタップダンスでした。
浅草の芸人は3拍子揃っていました。(演技が出来る、歌が歌える、踊り、タップダンスが出来る)
エノケンもそうでした。

伴淳三郎は舞台の上でサンバを踊りました、浅草の区長が伴淳三郎を訪ねて来て、「伴さん浅草の名物になるようなものが何かないか」と言ってきて、「区長サンバをやりなさい」と言って、これが浅草のサンバの始まりで、浅草のサンバも37回目になります。
ラジオ深夜便にも、春風亭昇太さん、萩本欽一さん(「人間塾」)などが出演しています。
萩本欽一さんのお父さんがカメラ屋をやっていたが倒産して、こちらに来て住むようになった、それがラッキーだったと思います。
うちが劇場を経営していて、父親がきて家の倅を使ってもらいたいと云うことで、働くことになりました。
次郎さんに誘われてキャバレーに仕事をやりに行ったりしていました。

渥美清さん、自分が生まれたところが上野の車坂町で「車寅次郎」の「車」はそこから来ています。
お父さんは新聞記者でお母さんが代用教員でした。
渥美清さんはアメ横でアルバイトをやっていて、彼の口上はあそこで鍛えられました。
雨が降ると稼げないので、雨でも稼げると云うことで、コメディアンになろうと云うことでこの道に入る訳です。
それでフランス座に来ました。
肺結核をやって病院に入るが、当時の肺結核は生きるか死ぬかでしたが、片肺になって戻ってきました。

ビートたけしは上手く代役をこなして、見込みのある男だと思いました。
正式に舞台のコメディアンとして採用したいと云うことで、採用しました。
ツービートとしてキャバレー周りが生活の糧でしたし、お客さんをひきつける力に成って行きました。
私は現在、地元商店会「六区ブロードウェイ商店街振興組合」理事長、「浅草西地区商店街協議会」会長として、浅草復興運動に携わっています。
「浅草オペラ100年」 昔うちの前にオペラ館という小屋が有ったので、ぜひ浅草でやりたいと云うことになり、昨年うちで16日間やりました。
今年は「アイドル祭り」をやろうと計画しています。
笑いが一番の健康です。