2012年5月3日木曜日

熊谷喜八(無国籍料理)       ・私の味覚人生

 熊谷喜八(無国籍料理)            私の味覚人生  
厚生労働省の卓越技能賞現代の名工に選ばれる   
フランス料理をベースにジャンルにとらわれない 喜八流無国籍料理
少年時代から憧れのパリに行きたいが為にコックを目指し、アフリカの大使館やフランスの一流料理店で研鑽を積み日本のフレンチの第一人者になりました
「はやぶさ」の技師の方も今回の卓越技能賞に選ばれている 
ほとんどが技術者が選ばれている
葉山で10年間任される1965年に日本に帰ってくる 
当時は高級魚だったが 鰯でもカサゴでも何で使わないのかと思った

新しいフランス料理を作っていた 
私の師匠は世界でも最高峰と言われるジョエル・ロブション  日本人の一番弟子 オリジナルを作りたいと思った
多国籍料理があるがいいとこどりでなくて パンにあう、ワインにあうことが必要
子供時代は食べ物がなにも無い時代であった 
パリに憧れどうしたらパリにいけるかと考えた  
コックさんであったらいける口があると言う事を見付ける 
少年時代は映画が好きだった 
小学校5年生の時に「翼よ!あれがパリの灯だ」というあの凱旋門の上を飛行機が飛んでいて あそこに行きたいと思った
「昼下がりの情事」これもパリの光景があり 兎に角行きたいと思った

中学を出ると家を出てしまった ホテルに行くが中学では門前払いであった  
東京オリンピックを控えてホテルが沢山出来てきて料理人がヘッドハンティングされて
足りなくなり 銀座東急ホテルを皮切りに,洋食の勉強ができた 
初めてアイスクリームを食べることができたのはまさに天国だった  
ホテルでは仕事に没頭した  
22歳でセネガル日本大使館(料理長)に行く フランスの植民地 独立して10年後だった  
ダカールは素晴らしい街並みだった
暑かったが 起きた瞬間から40℃あった  
刺身、納豆が食べたいと言われて海岸で釣りをしている人からこれはいくらだと言って譲ってもらって作ったりした

何でもやってみた 給料が少なく外でたべる事ができなくて、フランス料理の仕方が判らなくて偉く苦労する 
大使館の人から今回のコックは駄目だと言われて,鬱病になってしまい死のうかと思った    
モロッコ日本大使館(料理長)につぎに行く  
フランス語を学ぶ いろんな大使たちが遊びに来る 
将棋囲碁、ブリッジとかを代理で参加をしてその時にいろいろ話の中で,将来どうするのかと聞かれ パリに行きたいと言う  
それでフランスに行くきっかけになる  
三ツ星レストランでは 大変な労働環境だった しかし食材が素晴らしかった   
最後はジョエル・ロブション氏の下に入った 
物をつくる時の戦略 感性 技が凄かった

コンクール荒らしと言われていた 
当時のフランス料理の若手3羽烏と言われていた アラン・デュカス  アラン・サンドラス  ジョエル・ロブション  30歳代だった
日本では徒弟制度(見て覚えろ)と フランスでは直にシェフから教えてもらった  
日本人の向上心は凄いと思う 極めると言う姿勢が凄い 
カステラ一つ取って見ても味は世界で一番 ラーメン然り 
日本人の作ったフランス料理、イタリア料理は本当に素晴らしい  
日本の料理でも野菜だけでも素晴らしい

口に含んだ時の触感 歯触り 香り  料理法プラス 食材の良さ プラス魅せる   
旬感料理 日本は四季がはっきりしている旬の味が矢張り違う
和であろうが、洋であろうが、中であろうが 極めた人の感性は似ている 
容器・・・軽さ、口の当り方  絵でも同じ シャガール 棟方 志功等本物を沢山見る、知る事が大事である
料理は食べる環境があるのでトータルで考える必要がある 
波乱万丈で いろんな人と出会い いろんな国に行って いろんな人と知り合えたことがやっぱり料理の世界にも出てきている様な気がしますね

物を作ってくれている人に恩返しをしたいと思っている 
地方の農業、漁業の再生のお手伝いもしている
特に東北の被災地に行ったり来たりしている 
日本の農業は平均66歳 収入 お金が少ないから後継者がなかなかできないのでは  ,日本の農業技術は世界一だと思う  
リンゴ一つでもこれほど旨いものは無い いちごにしても然り  
農協に出荷するのが最終なので この形を考える必要があると思う  
青いトマトは日本人では食べないが外国では野菜として利用している
付加価値を付けて売る  B級品 C級品に付加価値を付けてやることで収入が増える
東日本大震災 沿岸部は大変 リーダー不在で残念   世界に通用する人材が必要  
いろんな国と接しないと視野が大きく成らない 
視点を変えてどんどん冒険してほしいですね