日本人で初めて宇宙飛行をした人
1942年(昭和17年)6月22日 - )は、日本のジャーナリスト、ソビエト連邦第3級宇宙飛行士、元TBS社員
1966年にTBSに入社 1990年 ソ連 ソユーズに搭乗 宇宙飛行に成功
1995年TBS退社 福島県にて有機農業を始める
去年3/11の大震災の後 群馬県に移り住んで その後京都に移動して2011/11月に京都造形藝術大学の教授になる
ジャーナリストとして辿ってきた道と宇宙飛行に至るまでを聞きました
最初の仕事はラジオの番組を担当 しっかり聞いてくれる人がいるのでラジオは好き
1967年からイギリスのBBCへ出向
1967~1971年まで担当 ベトナム反戦 フランスの学生運動が激しかった時期
文化大革命 日本では全共闘の時代にリアルタイムで経験することができた事は自分にとって凄く勉強になってよかった
外信部記者 として配属される
1975年にベトナム戦争の最終期をきちっと見られたので良かった
ロッキード事件にも外信部としてからんだ
TVの製作の経験も積む
報道特集担当 自分の好きなテーマを追いかけられるのが面白かった
戦後処理の問題 台湾兵の保障の問題 アジアの戦後処理の問題を一つ一つ掘り下げる
自分では手ごたえがある仕事をしたなと思った(今思えば浅い感じするが)
1980年代はバブルの時代 自分で放送衛星を持とうかと言うような構想が出てきた
TBSが係わるの放送衛星を打ち上げるようならば 社員を宇宙飛行士として送り出そうじゃないかと言うような構想が持ち上がった
当時ワシントン支局長だったので一枚かんで選考の時には名前を入れといてくれよといって進めていたが主担当が亡くなって仕舞い雲散霧消していた
ロシアの方で宇宙に記者を送ろうとは何となく雰囲気として有った
1985年ゴルバチョフが登場以降 アメリカに対して事実上降参した
アメリカとしては日本が末期のソビエトに対して経済支援をすることに反対しないと言う姿勢を持っていた
その様なことを嗅ぎつけたものですから ソビエトとアウンの呼吸でいくつかの放送局に打診すると言う事を掴んだ
モスクワに居る社員がさっそくコンタクトを取って 旨く軌道に乗って 行こうじゃないかと言う事になる
直接のきっかけは バイコヌール宇宙基地をTBSの報道特集の記者が取材に行った
其の時にマクラーノフさんという当時の宇宙担当大臣が視察に来ていた
パーティーでどうだと言う話が出る (1989年の事)
社内でもクリアされて 若い入社2~3年を対象に募集していたがそんな若いものを対象にするのはおかしいとなり、公明正大にやれとの事になり500人ぐらいが応募する
以前に病気をしたかどうか等で書類選考で100人対象に21人に絞られ7人に最終的に絞られる
其の時に落とされた 理由は胃に潰瘍の跡があるとの事 (46歳)
胃に潰瘍が有るのは男の勲章だと言った
他の人もいろいろ問題があり駄目に成った
敗者復活になってロシア側に米原万里さんが通訳をやっていて 落ちた人達の書類をロシアの人達が見て選考団長のボロンコフさんに対して米原さんが私の事を 本当に食えない男だと ひねくれていて、嫌みは言うし 、それはまるでロシア人みたいだと言って、其れは面白いと最終選考に入れてくれた
3週間ロシアで缶詰め状態となり若い連中は環境変化に弱いらしく風邪をひいたり、又やけにはしゃいだりしていた
(心理的な面も観察していた模様) 勝手に落馬して 私が残ってしまった
1989年~1990年にかけて訓練を受ける
訓練所はモスクワから40km 最初はロシア語ばっかり習う
3か月ロシア語ばっかり その後宇宙理論等 体操もシステマチックに行う
1990年12月2日搭乗 3人1チーム 誰か一人風邪になったりするとバックアップチームが担当することになる ようやくいけると思った
巨大事故は人為的な問題が多い システムへの信頼感はあった
数千トンが上がってゆくので最初はゆっくり、1段ロケット切り離し 2段ロケットの切り離し段階で3Gが掛る 地上に戻る方が負荷が掛る
8分50秒で地上200kmまで行ってしまう
無重力状態に対して ジュースを飲んで身体をひねったら胃が押されてジュースが口から飛び出してしまった
其れは胃液との混合物であり、嘔吐したものと同じ 心理的にも苦しんだ(72時間かかる)
蛙が無重力でどのような挙動をするかなどのリポートする
睡眠実験とか(医学的な実験) 一番素晴らしいと思ったのは地球を見て本当に綺麗だった 肉眼で見ることの違い 濃い大気 10kmぐらい
地球はこんな薄い物に守られているのだなと思った これは命なんだと
地上に降り立って 新鮮な空気を吸って 命の香りがする空気に感動した