2012年5月16日水曜日

大田昌秀(元県知事87歳)     ・本土復帰40年 明日の沖縄を信じて 2

大田昌秀(元県知事87歳) 本土復帰40年 明日の沖縄を信じて 
「基地を無くして平和な島へ」というテーマでお話願います。 
大田総合平和研究所は 「復帰40周年目に問いなおす」という写真展を開催している。   
膨大な数1788点、スペースが足りず全部展示できない。
若い人達に沖縄がたどった歴史の跡をきちっと振り返って理解してほしいと言う気持ちがあって 
県の資料館(沖縄戦の写真展示有り)ひめゆり会館
(女子学徒の写真展示あり)があるが、私の処ではホロコーストの写真、広島原爆の写真も展示している。  
学ぶには那覇から遠くて、交通が不便で修学旅行の生徒はバスで行くので観覧が可能だが、
地元の生徒は交通不便なのでなかなかいかない。

沖縄戦が理解できないのではと何とか実態を知ってもらたいと思って常設している。 
ここならば那覇に有り交通が便利です。
軍事基地も農村の土地を強制的に取り上げて、巨大な重機で作り上げ唖然とする。 
普天間基地の有った所は集落で其れがつぶされて、沖縄では戦後16くらいの民間人の収容所を作って 
生き延びた民間人は全部その収容所に隔離されていて、収容所同士の交流もできなかった。
一年後に解放されたが、自分の家に帰ってきたら、集落そのものが軍事基地に変わってしまった。
近くにテント小屋に住むようになり そのうちトタン屋根の家になり、コンクリートの家へと変わっていった。
米軍の方はそこに住宅をつくったのがいけないのだと言うが、米軍の言う事とはまったく違う。   
やむなく基地の近くにつくらざるを得なかったというのが実情です。
クリアゾーンと言って、滑走路の真向かいには建物を建ててはいけないようにアメリカではなっているが 
学校などができていて非常に危険です。 

アメリカの環境法令に違反する様なことが沖縄ではまかり通っている状態なんですね。
2004年に国際大学にヘリコプターが墜落すると言う事件も起き、復帰した後も5000件以上の事件
、事故が起こっており 墜落事故も15件ぐらい発生している。
50名近くのアメリカ兵が犠牲になっている。  
ラムズフェルド国防長官が来日して普天間基地を視察した時に、こんな危険なところに飛行場があるのは
いけないから2~3年以内に移動するようにとの報道があった。  
辺野古の海はジュゴンが生息している。  
辺野古の海の写真が展示されている。
住民にとって大事な生活の場所です。
日米安保条約は日本の国益にかなうというが、沖縄だけおっかぶされる。  
自分たちはいっさい引き受けようとしないと云うことで、怒りが広がっている。
過去の歴史を振り返ってみると、沖縄の人達はアメリカや日本本土の人達と同じ人間でありながら
人間的な扱いをされてこなかった。

日本本土が大の虫だとすると、沖縄は小の虫の位置付けで  
大の虫の為に小の虫が犠牲になってもやむを得ないと言う発想が貫いている。
沖縄が物扱いされる、手段としておおきな物の目的をするための達成手段として使われてきた。 
沖縄問題は根が深くて本土の人達には中々理解してもらえない。  
そこが問題解決を難しくしているところですね。
沖縄県は日本国土の0.6%、そこに米軍基地の75%が有る。  
沖縄の空の40%米軍の管理下に置かれている、沖縄の水域 29か所ほとんどが 
米軍の管理下に置かれている。 
沖縄は沖縄のものなのに、土地も、空も、海も 自由に使う事ができない。  
軍事的植民地だと認識を持っているわけです。

復帰の時も日本本土は独立して、沖縄は切り離されて軍事基地にされてしまうという、
そういうことがしばしば起こっていて、第二、第三の琉球処分と云う言い方をするわけです。
琉球処分(明治12年)と云うことについて沖縄の歴史を書いた ジョージ・カー と云う人がいるが、
日本本土の廃藩置県と沖縄の廃藩置県は根本的に違うと 
日本本土の廃藩置県は同一民族、同一文化、同一言語を踏まえて近代的な国民、国家をつくるんだと
言う事で廃藩置県を行ったと、
沖縄の場合は沖縄の民族を同一民族として迎えるのではなくて、日本本土を守るための南の門
として沖縄を位置付けて 軍事的な目的から沖縄に軍隊を常駐せしめる土地が欲しかった。
沖縄の人間ではなく土地が欲しかったと言っている。
それが今日の依然として植民地的な状態が続いている、基本的な要因になっていると思いますね。
(明治時代からの構造的差別)
722人の国会議員のうち 沖縄からは8人しかいない。  
沖縄問題を本土議員は声を大にしていっても、中々取り上げてくれない。
多数決原理からいつも沖縄はいつまでも差別される構造になってしまっている。

土地問題で沖縄では8割がた農業、農家にとって土地は生きて行く一番大切なものです。 
其れが軍事基地にされているために、ボリビア等に500世帯単位で移住させられてしまっている。
私が土地の代理署名を拒否した時に、衆議院では駐留軍特別措置法、日本本土では1960年以来
全く機能しなった法律を衆議院で9割が賛成、参議院で8割が賛成して悪い方向に変えてしまった。

知事の権限を取り上げ、総理大臣がその権限を実施で来る法律に変えてしまった。
総理大臣がサインすれば地主が反対しようが沖縄の住民の土地を
強制的に取り上げて米軍に提供するようになっている。  
辺野古の問題も水面の埋め立ても知事の権限であるが、これを又以前のように知事の権限を
取り上げて法律を変えて強行するような事があるのではないかと多くの人達が懸念している。
もしそのようなことが起こってしまうとすると、日米安保条約が根底から崩れる様な事に
なるかもしれないし、絶対に強行すべきではないと思う。 

沖縄基地に対する沖縄住民の考え方は、一番基本的には沖縄戦の体験が土地問題と緊密に絡んでいる
重要なことであるにも関わらず、政府首脳は沖縄戦のこの事に対して知識が無い。  
それでは基地問題に関すること、感情に理解ができないとつくづく感じた。
普天間移設問題で重要なことは、1953年~58年にかけて沖縄の島ぐるみの土地闘争と言って 
農民の土地を強制的に取り上げて基地にすることに対して
住民が反発して沖縄の歴史にかつてない大衆闘争が行われた。  
そういうのをアメリカはよく知っているものですから、日本に復帰して日本国憲法が適用されると
益々沖縄住民の権利意識が強くなってきて、基地の運用が困難になると懸念した。  
1966年ごろから、嘉手納以南の人口の多いところの重要な基地の運営が困難になると
感じて、1960年代の初めごろに、嘉手納基地界隈の基地を纏めて移すような計画を作っていた。
その辺の問題を理解しないで、あたかも移設問題が昨日、今日起きたかのように誤解されていて 
私達はそれをアメリカが解禁になった文書を集めてきてはっきり判ったわけですよね。 

それだけに移設は容認できないと言う事になった訳です。
知事時代に国際経政都市構想を発表、日本本土だけに捉われるのではなく、東南アジアと
緊密にして経済的に補ってゆこうとした。
アメリカにフェテダルエクスプレスという航空ウインが有って、沖縄に支店を出してほしいと要望したり 
香港に行って、世界中の修理工場があり、沖縄の若者を訓練してほしいと言って訓練して貰ったり
シリコンバレーに行って沖縄の若者にIT関係の訓練をしてほしいと言って訓練して貰ったりした。
福建省政府にお願いして土地を出してもらい沖縄がお金を出して、福建ー沖縄友好会館という
ビルを建てて、沖縄の企業が何時でもでて行けるようにした。
その一階では沖縄物産の売り込みをしている。   
香港、シンガポールの様に関税を無くすか、安くして欲しいと政府に要望したが日本では
一国二制度はできないと断られてしまった。
 
梶山官房長官は一国二制度 良いじゃないか、やろうよと言われた。  
喜んだんですが亡くなられて今日に至っている。
一般的に沖縄基地があるために沖縄経済が破綻しないと言われているが、実際はそうではなくて 
返還された基地を実際に調査(メリット、デメリット)したことがある。
基地が返されて民間が使うようになると、雇用は10倍確保できる。 
所得は固定資産税などは100倍になる可能性がある。
基地が返された方がはるかに有利となる、その点が誤解されている。
国際都市を形成する上で語学が重要で、県では英語、中国語、韓国語、スペイン語での同時通訳
を育てようとしていたら、当時の橋本首相が其れに
タイ語とフランス語を国費でもって付けくわえてくれて、6カ国語を育てることになった。  
現在では国際都市構想も弱まってきてしまって懸念している。

平和研究所の最大な目的、沖縄がアジアの要の位置を占めている。  
軍事的な要ではなくアジアに平和を作って、できれば社会に平和をもたらす人間としての
努力をしたいと言う事でやっていて、その意味からすると沖縄の良い、素晴らしい立地条件を
軍事的な目的の為に使わせるのではなくて、アジアの平和を作り上げるその要にしたい。
出来れば平和大学をつくって若い人達に平和の尊さ、大事さを知って貰おうという事でやっていて 
最近驚いたのはドイツ、イタリア、アメリカ 、イギリス 、ニュージーランドとか外国の若い人達が
沖縄に非常に関心を持っていて、博士論文に沖縄を取り上げているのが非常に多い。
論文が500冊取り揃えてある、レベルが高いのにも驚いている。

やり残した仕事の一つに首里城の地下壕、地下30m~35mのところに千数百mに渡って
地下壕が掘ってある。 
日本軍の沖縄総司令部が有った所で普段は1500人、多い時には3000人の将兵が入っていた。 
米軍を入れないということで、壕の入口を破壊してしまっている。  
2000万円を使って、掘り起こして整備して、沖縄を理解してもらうための一つとして 
教育の場所にしようと思っていた。(時間切れで出来なかった。)
やり残した仕事なので生きている間になんとか達成したいと思っている。

若者に引き継ぎたい事。
沖縄の戦前戦後の違いは大学ができたことだと思います、これは有り難いこと。 
学ぶことの喜びを知ってほしい。  
戦場で自分の無知を知らされて、学ぶことができた事は非常に良かった。
とりわけ海外で学ぶことができた事は良かったと思っている。
これだけ沖縄に基地があると当たり前とみなしてしまうのが恐ろしい。 
これは人間が人為的につくった物なので、基地はしょせん人殺しと結び付くものですから
そういうのを無くして、祖先が残してくれた大切な土地を人間の幸せに結びつく生産の場にして欲しい。
返還されたフィリピンのシュービック トクラーク基地に行って副大統領に会って話したところ 
経済的には苦しいが主権国家としての誇りを取り戻したと言われた。
その言葉に凄く感動した。  
返還されたところに200台の中古ミシンを設置して、若い女性が高級紳士服を作っていた。
それこそが沖縄の将来の生き方だと痛切に感じた。  
軍事基地ではなくて人間の幸せのための生産の場にしたいと言う事を痛切に感じました。