1992年両国にシアターΧ(かい)ができて20年になります
300人の座席数 商業主義とは一線を画して自主企画と若いアーチストの発表の場所として独自の路線を歩んできました
この劇場の芸術監督を務める上田さんは新聞記者や雑誌の編集者を経験した後演劇の世界に入り、ヨーロッパの前衛演劇を積極的に紹介するなど様々な実験的な試みに取り組んでいます 今年演目の中で 宮澤賢治、オペラ ドンジョバンニ イスラエルの新曲披露コンサートとかいろいろなものをやっている
サーカス 映像 ドラマ ダンス 舞踏 コーラス 様々なパフォマンスをやっている
現代演劇と考えてやっている オペラ魔笛等もやっている
モーツアルトが晩年に民衆がすぐそばで聞いていたという状況 両国のなかでも最大の歌舞伎が100人ぐらいだったんですね
小さい女の子が人間の声ってこんなに良い声なのと言ってくれているので 人間の肉声を聞かせる重要性を気がついた
1992年に出来た バブルの時代 東の方にもちゃんとした劇場を作ろうと思った
両国の駅から3分 シアターΧ(かい ギリシャ語 人が混じあう)
満州で育つ 一人っ子だったので一人でいろいろ考えることが多かった
キューリー夫人のファミリーが子供達を集めて化学の話 文学、演劇 美術の話とかを一流の人が子供に判る様に話していたと言うのに感動した
ジャンルとしては美術が一番好き
判らないことに悩んだりする文科系にも惹かれて行った
新劇はあまり好きではなかった
舞台芸術学院に行った 高校生の頃に行かされた(通常は大学生とか専門)
新聞記者、雑誌編集者になる 社会部、医学系の内容の取材もやる
演劇へのきっかけ は雑誌記者をやっている時に 坂東玉三郎 ゆーみん 等と接する様になった
1986年新聞に ヨーロッパの知識人が語る というシリーズが有って ポーランドの映画監督のアンジェイ・ワイダが言っていた
記事の中では人々の本当の気持ちが判らない
このごろは映画をつくる意欲が無いという内容だった
でもなんか夢がおありでしょう と言ったら 突如日本の歌舞伎の坂東玉三郎にドストエフスキーの「白痴」をやらしてみたいと言った 吃驚した
玉三郎にこの内容を伝えた 演出家として有名だった
坂東玉三郎はやってみたいと言ってくれた
手紙を出したが返信が無くて直にポーランドに行った
ワルシャワに着いたらクラコフで仕事をしていると言うので ホテルで会見することになる
両者ともにやる気になっているので直に両者が会って話をすることが良いと思って、話し合いの場をつくった(両者ともに時間が取ることが難しくて1年半後にようやく実現する)
3年掛けてようやく上演に漕ぎ着けることができた
ノルウエーのナショナルシアター(国立劇場)の人達からもやりたいと言ってきた
日生劇場のこけら落としの時に来てくれた人々だった
ギャラはいらないと言ってくれてフルメンバーで出て来てくれた
つかこうへいが 熱海殺人事件(昼間はあたらしいもの3種類) 8か月やった
6月はメインテーマは 宮澤賢治を取り上げてやる(20周年記念として)
8月は芥川龍之介(地元出身) の作品 「地獄遍」をやろうとした
新作オペラとしてお客さんと言うものは見せる人なしには演劇は成り立たないので見守りにきてくださいと 共感する或は反発すると云う
そういう活きた交流が舞台芸術の本当のものですから 新作オペラの地獄遍を演ずるものも 観客も一緒に作り上げてゆくと言うような感覚なんですかね そうなるといい
舞台芸術から得たもの
生の人間の創造の現場に立ち会えてその中で人間と言うものはどういうものか 或はその人間がどう変化してゆくことができるのか、というようなものを つぶさに見れたことで 演劇も一つのエンタテーメントだからといいますけど、結果 其れが楽しい思いをしてくれた人がいてくれたことも良いのですが、今までにないものをいかにして獲得していくかと言う事を、小説家が新しいく苦悩して新しい小説を書くのと結局同じみたいなものを劇場の場合は一人ではなく、皆の創造で可なり葛藤しながらやってゆくという、結果を見せるところでなくプロセスが大変な場所なんだなと言う事を学んだので、劇場にくる方たちも、自分のヒントにしてゆく
自分の生きかたの一つの参考にしたり 見た時は判らなくても何か自分の心の中で考え反芻する
生きている実感を味わえる処としてやってゆきたい