2012年5月2日水曜日

大林宣彦(映画監督)       ・映画で伝えたい復興と平和


大林宣彦(映画監督)            映画で伝えたい復興と平和
大林 宣彦(おおばやし のぶひこ、1938年1月9日 - )は、日本の映画監督。撮影所システムで育った「映画監督」ではないとの理由から本人は「映画作家」と称している
大学在学中から8mmフィルムで作品を発表してコマーシャルで話題作を次々に発表してきました
52年の作品「ハウス」で初めて監督として商業映画を作成してその斬新な映像は若者の心を捕らえました
(7人の少女が生き物のような"家"に食べられてしまうというホラー・ファンタジー)
日本の映像の最前線で新しい世界を開拓し続けています  「この空の花 長岡花火物語」についてお伺いします

3年前 長岡の花火との出会いがあった  仲間と会うのが楽しみで行った 
こんな美しい日本の夕暮れを見たのは初めてだと思った
そしてポッと花火が上がり ゆっくりしんなり花火が消えて行って 夕暮れが少し経ち、又花火がポッと上がるその光景を見ていて涙が出てきてしまった
花火で涙を流すなんて変だなと思った  妻がなんか花火は映画みたいな花火ねと言った   隣の市長にこの花火は心があるのですかと聞いたら    判りましたか 心があるんですよ とおっしゃった   
1945年敗戦の年の終戦の2週間前 8/1の夜の10時30分に敵機来襲 B29の傷痍弾で長岡の街が全滅になった,と同じ時間にサイレンが鳴って花火が上がる  爆撃と同じでしょう 
だから戦争を知っていらっしゃる年配の方々はこんな花火は止めてくれと 思いだすから  
嫌だと だけど戦争を忘れたら 又戦争が起きるかも知れないねと 戦争の恐ろしさ、痛みをしっかり学ぶことで 子供達に其れを伝える事でいつか未来に戦争の無い,穏やかな日をたぐり寄せたいという願いから 1946年から8/1に上げられている
 2004年には忘れもしない中越大地震がありましたね
 
あの大震災の後も道路をつくる家をつくるのに1円のお金を欲しいのにもフェニックスと言う再生の花火をあげる 
一瞬で花火は無くなってしまってもったいないなあと思うが,今の親たちが敗戦で貧乏でぼろを着ていた時にこの花火をみて よし元気になろう  
日本を復興させようと花火を見て大人に成った人達が又子供達にこの震災から立ち直って貰おうとなによりも花火をあげた  この伝統で8/1,2,3と続けられてきた  
この思想は 150年前 戊辰戦争 日本が明治新政府ができて世界に国を開いて行った 
この現代化の出発点の時からこの花火の思想があるわけです
 
戊辰戦争の時に新政府に負けましたでしょう  
この時に支援に有名な米百俵を送られるわけですね  
これを復興とは物や金が豊かになるだけじゃなく
この長岡の子供達が大人を信じ、未来を信じ 古里に誇りを持って復興させてゆこうとそういう子供達を育てて行こうと 復興とは子育てだと,米百俵をうっぱらっちゃて、そのお金で国漢学校を建てて初めて庶民の子供達を学ばせる 
負けた国の人達が子供達を育ててきて里を栄えさせてきた  
この気持ちが太平洋戦争敗戦後も更には中越大震災の後も花火と成って続いているということです

敗戦のときは子供心に国は亡くなる 殺されると一旦は覚悟したが 平和に成って 平和だ平和だといささかはしゃぎすぎて そして経済大国になってきたけれど
どこか幸せになっていない 平和がおぼつかないぞと  思いがずーっと有った  
この花火によって日本の復興の姿 物や金は豊かだけれども古里に誇りを持ち、未来を信じる子供達が本当に育ったかを 問い直そうと思いまして ,それで長岡花火に託して日本の復興とは何かを問い直そうと映画を作ろうとした
これは商業映画には成らないので金の工面をどうしようか考えていたら,長岡市民の人達が花火のような人から見れば無駄と思われるような花火をあげて里の誇り 復興の力にしてきましたから この映画も打ちあげますと,長岡市民の方たち、個人の方が老後のためにと言うようなお金まで集められて いよいよ撮影に入ろうかと思っていた矢先に あの東日本大震災に出会ってしまう
 
あの大震災で私達の頭の中は真っ白に成ってしまいました 
心の中のスクリーンは真っ白に成ってしまってここに何を表現していいのか判らなくなりました
被災者がご自身一番つらい悲しい時に もっともっと悲しい人達がいるのでその人達の事を想いやりますと 自分自身の不安不満は申しませんと,助けられる人がいれば手を差し伸べたい 
さらに私は多くの支援をいただいたので恩返しができるようにこの里を復興させますと   
感謝、我慢、思いやり そして勇気と希望を持って明日を信じよう 
これは日本古来の持っている資質ではなかろうか 

いまこそこの映画を作ろうと   花火も上げる事も自粛しようとの話もあったが 阪神大震災の時も行って打ち上げた 中越地震でも打ち上げたのだから ,復興花火を打ち上げようと言う事になる  
花火も打ち上げるのだから映画も打ち上げようということになり去年の8/1にクランクインする  
脚本も変更する   長崎に落ちた原子爆弾と同形状の(中身は違うが)爆弾が長岡にも落とされた(新潟への投入訓練の為  他の土地にも同形状のものが落とされた)
原子爆弾の投下訓練だった(山本五十六の生れ故郷への報復かと思ったら違っていた)  
1991年に判る 

人災と天災の両方を取り込んだ映画にしたいと思った 160分  
世界中の爆弾を花火に変えて打ち上げたら戦争は無くなるのになあと 山下清が言った
加瀬正治  従軍兵士を送る為の花火もあった    
ドキュメンタリー的であり 演劇的である  
紙芝居の人に出会って 紙芝居は嘘の絵だからこそ 真の心 平和への祈り 戦争への恐ろしさが描かれている  
だから紙芝居で描こうとした  
最近は紙芝居を書くような人がいないので絵を志す学生に頼んだ 記憶を絵にしてもらった

紙芝居の絵のような感じで映画をつくった  
それにより真実味 本当の恐ろしさ 悲しさが伝わってきた  
平和をたぐり寄せるにはどうしたらいいかを語り合う  
昔の映画は終わった後に皆さん語り合った  映画は学校だった より賢くなっていった 
映画は重苦しい、辛い、悲しい事をハラハラ ドキドキ 切なく うっとりとしながら心を柔らかくして それゆえにより深く考える事ができる
そして皆で語り合って意見を交換する これが映画の力だと思う
きちんと考えながら前に進まないといけない

魂と言う言葉が使われなくなったが 長岡等では現在でもよく出てくる
ホノルルに行ったが 日米合同で友好の花火を挙げる事ができた 
ホノルルと長岡が姉妹都市を結んだ 広島とも結んでいる 真珠湾攻撃
3/4にホノルルの海で上げた うつくしい花火だった 日本人もアメリカ人も涙を流した 
涙は平和の尊さ、平和をたぐりよせ様とする約束
映画を観終わった後にアメリカの同年輩の方が私の手を握ってくれた 
わたしも映画を見ている間は心を揺さぶられていましたが,映画を見終わった後に私達の子供の未来の為に立派なプレゼントを与えてくれた だから私は貴方にありがとうと言う言葉を言いますが判ってくださいね 
このありがとうはアメリカ人としての私の勇気ですと  こういう言葉を貰いました