2012年5月23日水曜日

堀切実(早稲田大学名誉教授78歳) ・芭蕉と歩いた人生


堀切実(早稲田大学名誉教授78歳)      芭蕉と歩いた人生
卒業後17年間教員生活をして、松尾芭蕉の研究に本格的に取り組み出したのは30歳を過ぎてからでした
「表現としての俳諧」、「奥の細道時空間」の夢 等多くの研究著書を発表してきました  奥の細道をはじめ芭蕉が旅した日本各地を訪ねてきました
芭蕉が日本文化に与えた影響 芭蕉への想いを伺いました
 
芭蕉が奥の細道に旅立ったのは元禄2年3月27日 (今の暦では5月16日)  
すさのお神社の句碑がある 出立の時に詠んだ句「行く春や とよなきうおの 眼は涙」
生と死の狭間について考える→  3月11日の東京大空襲の時に防空壕に居たが みんなお寺の方向に逃げて行ったので私もそちらに行こうとしたら、偶然に出くわしたおばさんさんに止められ何故か火の有る方に行った  
お寺の方に逃げて行った人達はその後の情報では皆焼け出されて亡くなったそうです
 
非合理の美学 偶然と必然 とかを良く読む   
芭蕉に興味を抱くようになったのは?→高校生の時に読む  大学は国文科を選ぶ  
志賀直哉について興味を持った 「城崎にて」
30歳を過ぎてから芭蕉について 平成元年 奥の細道300周年記念のイベントで講演することになり 出掛けて行ったことが本格的な出会いとなった
この時に何度も読み直すことになり、この作品はどうも奥の細道というものの本当の意味 文学としてどう評価すべきなのか  
そういうことが考えて来なかったのではないか  と言う風な疑問を持ちようになりました

奥の細道は何故日本の古典文学と言えるのか 其れを自分なりに考えることになりました  
それから論文を書いたり 芭蕉の足跡を訪ねることになったわけです
隠遁生活  全く世間を離れるタイプ(空也) と 隠遁はするけれども隠遁に徹しないで歌を詠んだりするタイプ(西行) これは俗世間とは離れないで生活する
芭蕉も俗世間の人と交わりながら生活する(日本橋 隅田川の近くに)
37歳の冬に突然日本橋から深川に移る  
原因は定かではないが 無常の想いがあったのでは  風雅の世界に徹しようとしたのでは
自分は半分坊さん 半分は俗人だと 言っている  
西行は月こそ友達だと言っているが芭蕉も月にこだわった
芭蕉に取って旅とは?→毎日毎日が旅の連続である  奥の細道の冒頭の句「日々 旅にして 旅を住みかとす」 これが理想だと言っている
旅そのものが自分の住まいである と言っている  永遠の旅人   (通常は旅は日常からの脱出)
人類は定住生活に入っても旅に憧れを持っていたと思われる  
芭蕉も漂泊する人(後者の人) ひたすら漂泊する人 漂泊遍歴民 日常の文化から離れてひたすら自然に親しむ (種田山頭火もその一人)
諸国を遍歴しながら遊びながら旅を楽しむ人達  遍歴遊侠民 人間の生活、文化に触れながら 各地の人と交流しながら旅をする人達
芭蕉は47歳の時に出発する
   
「波の音 絶えずして 古里遠し」 種田山頭火の句   「旅の価値はその不安にある」(カミュー) (旅は精神的な試練の場である)
「万物はくまなく宇宙を駆け巡って旅をする」(アンゼルセン 漂泊の人)
昭和13年に37年ぶりに種田が生れ故郷に帰った時に蛍が飛んでいて其の時に読んだ句  「生れた家は跡かたも無い ほたる」
芭蕉の弟子 各務 支考 (かがみしこう) 一派(美濃派)が全国に広がる  
昭和40年ごろまで続く
芭蕉の弟子 広瀬惟然(ひろせいぜん)  漂泊の人    蕪村も漂泊の人
 
20年以上前 色の浜へ行った 西行法師が読んだ土地 (敦賀)  芭蕉が立ちよったとこと 
敦賀湾を眺めていたら松島の 小島は月を待つ島  みちのくの霊場  小島へ渡る渡月橋を今回の大津波で破壊されてしまった  
奥の細道の世界には自然の変化 人間の変化についての芭蕉が実感したものがいくつも折りこまれている
「タコつぼや はかなき夢を 夏の月」  晩年 瀬戸内の明石に行った時の句  
海面では夏の月が青白い光を投げかけていて 海の中ではタコがタコつぼの中で、つり上げられる運命も知らないで 短い夜に、はかない夢をむさぼっている という句  

源氏 義経  平家の敦盛 の戦い 一の谷に近いところ  
このはかなき夢と言うのは これらの武将たちのはかない夢 歴史的な感慨が込められているようにも思える  
無情な想いとたこというユーモラスのものが、対称されている訳です   
この句のテーマは実を言うと 「夏草や つわものどもの 夢のあと」(平泉での句) 
と同じなんです