2018年5月5日土曜日

樋田毅(ジャーナリスト)          ・銃に倒れど、ペンは折らせず

樋田毅(ジャーナリスト)          ・銃に倒れど、ペンは折らせず
元朝日新聞の記者、昭和53年に入社、高知支局から兵庫県西宮市の阪神支局、大阪などで勤務、今日年退職して現在はフリーのジャーナリストとして活動しています。
31年前1987年の5月3日に起きた朝日新聞阪神支局襲撃事件、樋田さんは後輩の記者を亡くしながらも取材班のキャップとして長年にわたって取材の最前線に立ちつづけました。
事件は16年前に時効を迎えました。
しかし樋田さんは事件の取材を続け、記事や本の執筆、講演などを続けています。

お墓参りは5月3日の前に行って事件解決の誓いをします。
朝日新聞は辞めたので家族と一緒に冥福を祈りたいと思います。
事件は31年前1987年の5月3日の夜に起きる。
朝日新聞阪神支局に目だし帽をかぶった男が無言で散弾銃を発砲。
当時29歳だった小尻知博記者が殺害され、犬飼兵衛記者が右手薬指と小指を失う重症を負いました。
最初の事件の後、赤報隊と名乗る犯行声明文が送られて、その後名古屋にある朝日新聞の関連施設での発砲事件や静岡支局の爆破未遂事件などが相次いで、広域重要116号事件に指定して捜査を行ってきたが、朝日新聞阪神支局襲撃事件は平成14年に時効を迎えて、他の事件も平成15年に全て時効となる。
この事件への怒り、何としても犯人にたどり着きたいと言うのが一番大きいです。
御両親にも犯人を必ず見つけ出すという事を約束しましたが、ご両親は亡くなられてしまいました。
いまも取材をしています。
言論の自由を全く無視した行為を赤報隊はしてきたこれは許せない行為だと思います。

1952年4月愛知県生まれ、早稲田大学に進む。
小さいころからおぼろげにジャーナリストになりたいと思っていて、大学時代には学生運動が盛んでした。
新しい自治会を作ろうという運動をして私は新しい自治会の委員長をしていました。
世の中の推移を眺め観察する新聞記者の役割をみて新聞記者になろうと思いました。
面接の時に「何のために新聞記者になりたいのか」と問われて、「社会正義の実現の為です」と答えました。
1978年に朝日新聞に入社。
入社6年目、1983年に兵庫県のある市で公金横領事件があった。
情報に基づいて本人に会いに行ったら、事実を認めた。
その経緯を記事にした数日後、市役所の職員が自殺をした。
その元は私の記事なので家に電話をしたら、奥さんが出て「あなたのことを一生恨みます」と言われて、ショックだった。
記事に書くけれども字にするということは色んなものを背負うことでもあり、新聞記者として責任もあり重い仕事だと改めて自覚しました。

その後大阪の社会部に異動、35歳の時に阪神支局襲撃事件が発生する。
5月3日に休暇をとって夜くつろいでいた時に、TVのニュースで小尻知博記者が撃たれたということで、電話をしても通じなくて深夜に電話ががり、翌早朝来るように言われました。
小尻知博記者は家族思いの誠実な良い記者だったと思います。
赤報隊から犯行声明文が出される。
朝日新聞、戦後の色んなものに対する敵意を感じました。
声明文には怒り感じました。
徹底的にこちらも身構えて赤報隊の正体を突き止める、犯行声明を見ながらこう思いました。
最初2週間は朝から晩まで近辺の施設などの聞き込み調査をしました。
その後特命取材班に入って、デスクからこれからは「君たちは原稿は書くな、犯人を追いかけろ、とにかく犯人を捕まえてこい、それがお前たちの仕事だ」と言われました。
右翼取材をしようという事で、勉強したり取材をしてきました。
記者なのに警察と同じことをしてきました。
記事を書けないということは大きなストレスでした。

事件の被害者であり、取材者であるという意味では他社から抜かれる様なことがあってはならなかった。
被害者として捜査に協力するがどこまで協力するか、取材源の秘匿と言うことも大事なことで、捜査機関に伝えることでどんなことが起きるのか、言論の自由が補償されなくなる可能性もある、一方は権力機関なので、どこで折り合いをつけるのかということが大事です。
取材をして行くとこのあたりが犯人ではないかと段々に浮かび上がって来るが、捜査機関なのではないので我々は白黒を付けることはできない。
色々思い悩むことだらけでした。
特命取材班にいた時も、事件が時効になって一人で取材をした時の色んな人に会いますが、事件が解決するかもしれないと考えながら、もし真犯人であればどんな原稿を書こうかと思って会いますが、犯人とは決めつけられないというふうにがっかりしてしまう結果が多かった。
結果としては犯人像にはたどり着けずに30年以上過ぎてしまいました。

時効を迎えてしまったが忸怩たる思いが浮かび上がってきます。
そのことをご遺族の御両親に報告しました。
朝日新聞のコメントとして、我々には時効はない、言論機関へのテロは認められないという思いは、時効によって変わることはない、ということでした。
昨年の12月に朝日新聞を退職した後も取材活動をしています。
自由な立ち場として取材の経緯を振り返る本を書きたいと言うふうに思っていて、2月の末に出すことが出来ました。
この本をきっかけに新たな情報もあり、これから時間をかけてゆっくりやって行きたいと思います。
右翼の人達とは300人は会っていると思います。
右翼の人にとって、右翼の人は赤報隊を支持すると言うことは言われました。
意見の違いに対して、殺してもいいという赤報隊の考えは我々は認められない。
天誅は右翼の人にとって大事な考え方だと言うことは、私は認められませんとはっきり言って事件の解決に向けてご協力して下さいというやりとりをして、右翼の取材を続けて来ました。
いったいこの事件はどうして起きたのか、この事件は何だったのか、という大きな謎があってこれを何としても解決していきたい、赤報隊との戦い、ギブアップしてはいけないことだと思います。

赤報隊は単なる殺人グループなのか、思想グループなのかと問いたい。
思想グループであるのならば名乗り出て何故あの事件を起こしたのか、何故小尻知博記者を殺害したのかしっかり語って欲しい。
時効から15,6年たっているので、名乗り出ても刑事責任はないので語って欲しい。
あの事件が未解決になっている中、ネットなどでは朝日新聞が又跋扈(ばっこ)してきているので赤報隊にお出まし願おうか、というような危険な言葉がネットなどで飛び交う中、大変な時代になっているかもしれないと思います。
言論の自由を、テロが二度と起きない様な、私も一記者に戻ってそのために貢献したいと思っています。