2018年5月14日月曜日

田名部和裕(日本高等学校野球連盟理事)   ・【“2020”に託すもの】高校野球と歩んだ半世紀

田名部和裕(日本高等学校野球連盟理事) ・【“2020”に託すもの】高校野球と歩んだ半世紀 (1)
今年の全国高校野球は100回を迎えます。
関西大学卒業後、1968年 日本高等学校野球連盟の事務局に入り、事務局長、参事、2010年からは理事として半世紀に渡って高等学校野球を内側から支えてこられました。
1968年は50回大会の年で大阪興國高等学校が優勝、翌年は三沢-松山商業の延長18回決勝再試合があった年です。
大学時代もマネージャーをしてきました。
関西大学は朝日新聞の運動部のお手伝いをしたりスコアブックを付けたりなどしていました。
高野連が人を探していて、どうだと言うことでが話がありました。
野球のことが出来ればと思いました。
戦後高校野球の再開の話があり、GHQが日本の大改革を進めてゆく中で、新聞社が大会を主催すると言うのは適当ではないと言うことだったが、文部省の助言もあり、連盟と言う組織を作って両方でやったらどうかということで、大会を復活するために高野連を作ることになりました。

ルールの整備、大会参加資格など徐々に固めて行きました。
野球統制令を廃止して独立した組織を作らないと学生野球は発展しないと、当時の人が随分苦労したようです。
戦後の1946年 第28回大会、西宮球場で復活、19校(全国でも745校)だった。
50回の時には全国で3900を超える数になる。
2県で1チームでは予選で負けると出られないので、自分の県から出したいと言う思いが強くて、増やしてゆくという事もありました。
宿舎(大部屋)、練習場の確保の問題などがありました。
起きている間はビジネスホテルのドアを開けて解放的にするとかアドバイスしたりしていました。
洗濯機の調達とか、宿舎側の協力などがありました。
出場校が49校になり、練習場の確保をなんとか70か所ぐらい行いましたが、結構大変でした。

当時高野連会長は佐伯達夫さん、高校野球は教育、人間形成の場であるということで高校野球を引っ張って行く。
不祥事に対しては厳しかった。
佐伯さんは常にかばんの中にはがきが入っていて、筆まめな人でした。
情報を沢山の人から収集するのが得意でした。
佐伯さんは野球はお金がかかるので質素にということをやかましく言っていました。
1973年にハワイのチームがアルミのバットを持って行って使っていいかどうかの話があり、佐伯さんはそれを見て翌年には直ぐに決めました。
最初は周りからの反対意見がありましたが、進めて行きました。
金属バットで一番お世話になったのは芝浦工大の学長をされた大本修先生、金属バットは宇宙開発事業の一つの成果である軽い金属、先生は終生出来るだけ木製に近づけるようにという話はありました。
もう一人お世話になった人として加藤正夫?先生、東京大学校工学部、金属の材料工学 戦前ゼロ戦の制作にもかかわった人です。
1990年に亡くなったが弔辞のなかで戦前は戦争にかかわったが、晩年は平和の仕事、高校野球の金属バットのお手伝いが出来て本当に良かったという内容を聞いて感動しました。

1995年阪神淡路大震災、牧野会長の安否、甲子園球場はどうなんだろうと思いました。
一段落した後にバイクで出かけましたが、ゆく所の景色では野球はしばらく無理だと思いました。
高速道路は真横になぎ倒されていましたし、2,3年は無理だろうなあと思っていましたが、甲子園はシーンとして大丈夫でした。
高校野球をやることで復興の邪魔になるのではという思いもあり、意見が別れました。
えんどうやすお?さん(朝日新聞運動部長)から、モスクワオリンピックのことを知ってるかといわれて、JOC委員長の栗本?さんに晩年お会いした時に生涯で一番つらかったのはモスクワオリンピックに行けないこと選手に伝えたことだったという話をしてくれて、努力しないでやらないと言うことでは駄目だと言うことで、まずは頑張ってみろと言われて踏ん切りがつきました。
2月15日に知事さんに相談に行きましたが、「被災地にも桜が咲く頃明るい話題がいるでしょう、おやんなさい」と言われました。
電車もなく交通対策が大変でした。
佐伯さんの不祥事に対する厳しさが、交通対策に関する交渉でも信頼してもらい、了解してもらいその時涙が出ました。

その時は高野連は牧野さんでした。
牧野さんは21年間高野連を務めました。
ストライクを先に言うのは日本だけで、牧野さんに言ったら替えたら方がいいんではないかと言われて、東京にいって話を進めようとしたが反対された。
物事が定まるには3つの法則がある、と言われた。
①なんか最初にやろうとすると馬鹿にされる。
②更に進めると猛烈に反対される。
③或る日自明の理と突然認められる。
最初リズムが違うという感覚があったが、今ではそうしないと不自然な感じさえします。