本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・【近代日本150年 明治の群像】大隈重信
講談師 神田蘭
講談による紹介
天保9年(1838年)2月 佐賀藩士の大隈信保・三井子夫妻の長男として生まれる。
7歳で藩校弘道館に入学し、佐賀の特色である『葉隠』に基づく儒教教育を受けるが、これに反発し、退学させられる。
その後自分の意志で国学、蘭学、英語を学び、弘道館の教授として働くようになる。
アメリカの独立宣言に大きな影響を受けて政治家になる事を決意、討幕を目指して脱藩する。
やがて討幕がかない明治新政府でもって近代日本の基礎を作って行くわけですが,政治家として重信は二度内閣総理大臣を務め教育者としては早稲田大学を創立し、佐賀七賢人の一人に数えられ数々の偉業を成し遂げる。
明治14年では挫折を味わい、爆弾にみまわれ右足を無くし、離婚を経験、それでもめげず前へと進む精神力、何故そんな精神力をもてたのか、それには母親三井子の教えが根本にあったと言われます。
重信が幼い頃、親戚の子供達と共に虫取りに出かけたが、籠を持つ係を押し付けられるが、捕まえたセミを逃してしまってばかり。
親せきの子供達からうすのろとののしられ、泣かされてばかりいたそうです。
泣いて帰って来る重信に母親は、男は泣くんじゃないとは言わずに、温かい目でいつも見守っていたと言います。
12歳の時に父親が他界、その後母親は5人の子供を育て上げて行く。
母親が子供達に常々言っていた教えが5つあるそうです。
①喧嘩をしてはいけません。
②人をいじめてはいけません。
③いつも先を見て進みなさい。
④過ぎたことをくよくよ振り返ってはいけません。
⑤人が困っていたら助けなさい。
重信は生前母のことを、「吾輩は母一人の手で育てられたが、15,6歳の頃は乱暴者で餓鬼大将のようであった。 友人が遊びに来たが、母はたいそう友人が訪ねてくることを非常に喜んで手料理をこしらえて馳走してくれた。」言っている。
晩年の重信は自分の家に人が尋ねてくることを非常に好んだと言われる。
毎日20~70人が大隈邸を訪れていたとか。
母親三井子の影響があると思われる。
重信は砲術師の家300石の上士の家に生まれる。(年収2000万円は軽く超えている)
『葉隠』は佐賀の武士の精神のよりどころだった。
この時代はオランダ語が多く学ばれるが英語を学んでいるということは先見の明がある。
佐賀藩校英学塾「致遠館」で教授フルベッキに英語を学んだ。
副島種臣と共に重信は助教授となって指導に当たった。
副島種臣は書家としても有名。
大隈は貿易、財政でも頭角を現す。
外交が得意で財政面でも抜きん出ていた。
キリスト教の弾圧に関して英国公使パークス(傲慢高圧な人)、と交渉することになるが大隈が総大将になり対峙した。
パークスが大隈のような下級な人間とは相手にできないと言った時に、「あなたもイギリス国王を戴いてここにいるのなら、私は天皇を戴いて全権として対峙している。
それがいやだったら談判は無し」と言ったら、困って交渉せざるを得なくなった。
ヨーロッパのこと、キリスト教のこと、法律の体系を知っていたのでパークスは吃驚してしまった。
誰もがこいつは出来ると言うことが判って明治新政府でも要職についてゆくことになる。
明治政府で彼がやったのは財政畑で、税金をどう取るかということで辣腕をふるった。
財政のトップになり殖産興業政策を推進した。
明治10年西南戦争がおこり、明治14年には政変が起きる。
大久保利通が暗殺され、だれが継ぐのかいうと伊藤博文、大隈重信がいた。
日本の政治をどういう形にするかと言った時に、政党による政治、憲法を作り憲法により政治を動かしてゆく、そういったことを整備する必要が有った。
岩倉具視は保守で政党政治を否定、伊藤博文は政党政治は必要だがゆっくりやっていこうという考え、大隈重信は欧米を見ても政党政治をやるのが本筋なので早く議会を開かなくてはいけないという立場だった。
岩倉と伊藤が手を組んで大隈は失脚すると言うことになる。(「明治14年の政変」)
伊藤と大隈は終生ライバルということになって行く。
明治15年 大隈は立憲改進党を結成、総理に就任、東京専門学校(現早稲田大学)を開設。
明治21年 大隈が外務大臣に就任、大隈の外交手腕を評価する伊藤は、不平等条約改正のため、政敵である大隈を外務大臣として選ぶ。
明治22年に国家主義組織玄洋社の一員である来島恒喜に爆弾による襲撃(大隈重信遭難事件)を受け、右脚を切断するとともに辞職した。
条約改正を成し遂げる一つの方法として外国人を裁判官として任用する、そうすれば外国も日本を信用してくれるだろうという思惑だった。
売国奴だと言うことで爆弾を投げつけることになる。
順天堂医院院長の佐藤進、ドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツらによって右脚の切断手術が行われた。
犯人のことを馬鹿な奴だとか一切言わなかったということでした。
明治23年第一回衆議院選挙、帝国議会が召集される。
議会と藩閥(薩長)との戦いが繰り広げられてゆく。
明治31年板垣退助などと憲政党を結成、第一次大隈内閣が成立。(薩長以外で始めて内閣を組織 「隈板内閣」)
明治40年 いったん政界を引退し、早稲田大学総長への就任。
明治42年 伊藤博文はハルビン駅で、大韓帝国の民族運動家・安重根によって射殺された。
大隈は「あいつらしい死に方をしやがった」と言って、ワンワン泣いたそうです。
明治45年 天皇崩御。
大正3年 第二次大隈内閣成立。 第一次世界大戦勃発。
大正5年 第二次大隈内閣解散。
大正11年に亡くなる。
日比谷公園で未曾有の「国民葬」が催され、式には約30万人の一般市民が参列。