2018年5月13日日曜日

土門正夫(元NHKアナウンサー)     ・【特選 スポーツ名場面の裏側で】五輪放送の証言(H21/9/25 OA)

土門正夫(元NHKアナウンサー) ・【特選 スポーツ名場面の裏側で】五輪放送の証言(H21/9/25 OA)
去年の5月に87歳で亡くなった元NHKのスポーツアナウンサーの土門さんを偲んで再放送お聞きいただきます。
昭和26年NHKに入り、以来37年間スポーツ実況アナウンサとして数々の名放送をしてきました。
野球、バレーボール、体操、駅伝、ラグビーなど担当種目は30を越えました。
30歳の時の昭和35年のローマ大会から昭和59年のロサンゼルス大会まで夏と冬、併せて7回のオリンピック放送を担当し、日本人選手の金メダル放送は20回を数えました。
又紅白歌合戦の総合司会や、スタジオ番組スポーツアワーも担当し、笑顔とさわやかな口調と、心に残るコメントは多くのファンの感動を呼びました。

NHKを退職したのは57歳で辞めて今79歳ですから22年前になります。
健康診断は13,4年やっていませんので体は大丈夫だと思います。
松本:入社4年目で昭和50年春の選抜で第二試合を放送することになっていたが、緊張で夜眠れず大遅刻をして入場行進開会式に間に合わず、土門さんから「入場行進開会式を見ずに選抜放送が出来るか、何を思ってるんだ」と怒られました。
土門:あの感激に満ちた入場行進を見ずして高校野球の雰囲気の何が判るんだと、怒った覚えがあります。
昭和26年に赴任しましたが、アナウンサーになる気はなかった。
5年生の中学も精密機械でずーっと理工系でした。

昭和39年東京オリンピック 当時34歳、東洋の魔女と言われた女子バレー、ソ連との決勝。
一番印象的に覚えているのは、物凄い歓声でサイドアウトが5,6回あって最後のソ連のオーバーネットの瞬間静寂が訪れて、その後ウワーっと物凄い歓声があり、河西キャプテン 彼女だけ泣いてないんです。
後でどうしてと聞いたら、キャプテンだけは審判などに挨拶にする、それまでが私の役目なんです、泣いていられますかというんです。
彼女がいたからコントロール出来たんですね。
カラーのTV放送でした、マラソンも全コース中継であのオリンピックはNHKの技術さんの大勝利だったんです。
閉会式ではTV担当。
日本の運営なので何分何秒までびしっと決まっていたが、旗の列のむこうから山のように人がなっていて、後は滅茶滅茶でした。
だからこっちは真っ青でした。
これを言ってやろうと思っていたが何にもなしで、何を言ったか覚えていませんでした。
放送が終わった瞬間に皆が真っ青で、東京オリンピックの放送をめちゃくちゃにしてしまったと皆黙って、暫く坐っていて皆で謝ろうといって放送スタッフの大部屋に行ったら、
大拍手です、良かった、面白かった、と言われました。

僕はその後打ち上げなど色々やったらしいんですが、覚えて居ないんです、どういうふうに家に帰ったのかも覚えて居ないんです。(酔っぱらってじゃなくて)
イギリスの有名なジャーナリストが東京オリンピックの最高の成功は閉会式であると言っていました。
その後のオリンピックは全部あのスタイルですからね。
その閉会式を実況したのが土門正夫です。
昭和47年ミュンヘンオリンピック、男子団体4連覇の時に決勝の模様を放送。
TV実況放送。 最後の演技 塚原の鉄棒 月面宙返り
体操で3つ団体優勝の放送を担当して幸せな男だと思います。
同じミュンヘンの男子バレーボールが金メダルをとる。
準決勝、決勝で大逆転する。
2年前、ブルガリアに2セット取って逆転負けしている。
準決勝でブルガリアと対戦、2セット取られていて、松平監督は選手を集めて、「おい、これから2時間半じっくり試合を楽しもうぜ、やろうぜ。 2年前を思い出せ。」と言ったんです。
中村祐造、南 克幸選手のベテランを2人を入れて雰囲気を変えて大逆転した。

日本はソ連に弱かったが、準決勝で東ドイツがソ連を破って、相性のいい東ドイツと決勝を行うことになる。
東ドイツを破って日本が金メダルを取る。
選手は喜びに舞いあがっていました。
高校野球で自分が放送した中で一番印象に残っているのは昭和53年 60回大会
決勝での高知商業とPL学園。(この時初めてPL学園が優勝する)
監督が鶴岡さん(鶴岡一人さんの御子息)、解説が松永怜一さん(鶴岡監督の恩師)
優勝した瞬間に松永さんは目を真っ赤にして絶句し何も言えなかった。
0-2でリードされていたPL学園が9回の裏に一挙3点をいれて逆転サヨナラ優勝する。
準決勝でも中京に0-4リードされていたのを9回裏で同点にして延長戦で勝っている。
監督の一声があり逆転のきっかけを作っている。
昭和60年10月16日タイガースが対ヤクルト戦、21年ぶりに神宮球場で優勝するが、その時に実況をしました。
掛布選手のポールに当たるホームランから追撃が始まった。
物凄い歓声でした。
吉田監督はキャンプから徹底的に基本からやりました。

僕は自分が楽しむことを兼ねて言うと、スポーツで一番好きなのがラグビーです。
男と男がガーンとぶつかり合うあの迫力は最高です。
釜石の7連覇の時の試合に入る時に放送に入った時に歓声が凄くぞくぞくとして喋れなかったです。
昭和26年に広島に赴任、ガーンとやられて、辞めてやろうかとふてくされていました。
翌年ヘルシンキでオリンピックがあり、和田信賢さん(大先輩)が出かける時に一緒に行った志村正順さんが医師から「この方はこのまま仕事をしたら命の保証はありません」と言われるぐらい和田さんはからだの具合が悪かった。
でもオリンピックのテーマ音楽が始まると、今までの具合の悪さは吹っ飛んで、別人のような声で喋り始めて、和田さんの放送を聞いて何故か背すじがゾクゾクとするような感覚があり、じーっと聞いていました。
大会中に倒られてパリで一人で入院して日本に帰りたいと言って亡くなられました。
それを聞いて、この商売は命を掛けてまでやる仕事なのだと、初めて和田さんに教えてもらいました。
よし、一つやってみるか、それから真剣にやり出しました。

負けたくないから人が一やれば二をやってやると思いました、資料を調べるとか勉強すると言うことはだれでもやることですから。
しかし申し訳ないと言うことでは、家庭サービスは全くしませんでした。
スポーツ実況アナウンサーは楽しかったかと問われると、楽しくはありません、NHKを辞めて60歳過ぎてから、こんな面白い部分があるのかと思いました。
NHKという枠を自分ではめていたような気がします。
それまでは常に色々反省点を考えてしまいました。
パーフェクトはないです。
ロサンゼルスオリンピックのことに繋がるのですが、女子マラソンが初めて行われて、アンデルセンという選手が30何番目かに入って来てヨロヨロやっとゴールインして、静寂だったところに大歓声が起こり、その放送をラジオでやっていて高橋進さんと二人で涙が出てラジオなのに喋れなかった。
やっとぽつぽつ喋って、その後大反省して、上司に大変申し訳ないことをしたと、どういう理由があるにせよ放送出来ないほど涙を流してしまったことに対して謝りました。
でも「あれはあれでいいんだよ」と言ってもらいました。
頭で考えた言葉、作られた言葉は他人の心は打たない、あれでいいんだよと言ってくれました。
心の息づかい、鼓動、心の言葉が本当の実況なんだと思いました。
最近のことを一言言えば、あまりにも大向こう受けする放送が多過ぎるのではないか。
自分で人に受けようと思って放送している気持ちはあなたの気持の中にありませんか、
そういう言葉がちょっと耳について気になる今日この頃です。