2018年5月24日木曜日

麿赤兒(舞踏家・俳優)          ・75歳、倒れても踊り続ける

麿赤兒(舞踏家・俳優)          ・75歳、倒れても踊り続ける
1965年唐十郎の劇団・状況劇場に入団、劇団を象徴する俳優として活躍、1972年に舞踏集団・大駱駝艦を創立、以来46年に渡って国内外で講演を続けて来ました。
麿赤兒さんにその波乱の人生と舞踏にかける思いを伺います。

中学高校時代から演劇部でした。
親がいないとか、親が戦争で亡くなったとか訳ありの子がいろいろ居ました。
見よう見まねに勝手に演劇部を作って部長をやって、7,8人集まりました。
奈良県立畝傍高等学校へ行ったが、演劇部は一人もいない。
1年から部長になり、図書室で高校演劇の物を読んだり、段々欲が出てきて色々本を読んで勉強しました。
早稲田大学に入学しました。
1,2カ月で挫折して授業は出なくて、アルバイトを探して、色々やったんですが遊び(映画芝居を見たり、パチンコなど)に使って、授業料を払えなくて、中退しました。
劇団『ぶどうの会』の研究生になりました。
その劇団も半年で解散してしまって、宮本研さんとかが「変身」という劇団を作り、そこに入って主役をやることになり、一生懸命稽古をしていましたが、突然おまわりさんに捕まることになってしまってその芝居に穴をあけることになってしまいました。
酒を飲んでこわもての人と喧嘩になりましたが、そのうち忘れていたが、1年後に警察から来るようにいわれて、警察署に出かけていったら逮捕状を出されてしまいました。
2日間泊められてしまって、劇団を首にするかどうかで擁護派と反対派に別れて、その後政治的なものになり、段々居たたまれなくなりました。
ヒッピーがはやり始めた頃、喫茶店に入り浸れているうちに、唐十郎さんから声を掛けられました。
一緒に飲みに行ってそのまま彼のアパートに居候することになりました。
彼は芝居を書いていたりしていました。
21歳から彼と芝居を7,8年一緒にやりました。
最初の公演はテント公演を思い付いて花園神社にテントを立てて「腰巻お仙」をやったら好評でした。
青年男女の恋愛がもつれにもつれて迷宮に段々旅をするようなお芝居ですが、時空を越えてしまっていつの時代かわからないような芝居でした。
嬉々としてやっていたが、段々覚めてきて、台詞が長くなり難解になり、一生懸命にはやったが、子供が出来てお金も必要になったりして、辞めて金を儲けることにしようと思って、産地直送の米を売ったりすればもうかると言う話もありやったが駄目だった。

風月堂でも知られるようになった頃、ある女性が来て付いてきてほしいということで付いて行ったら、舞踏家の土方巽さんの稽古場でした。
50坪ぐらいありました。
ドテラを着て一見ホームレスのような格好でしたが、眼光の鋭い人でした。
金粉ショーをやることになり、あまり稽古もしないで放り出されました。
昼間は空いているので稽古場として使わせてほしいということで稽古をしていました。
土方のブレーン 澁澤龍彦さん、細江英江さん、種村季弘さんとかの文学者、文化人が一斉にうちの劇団に芝居をみに連れて来て、面白いと広げてくれて人気が上がってきました。
状況劇場を私が辞めたということが広がって、若い人が来るようになりました。
夏に裸で寝ている若者たちの姿を見て、これにクラシックを掛けて、このまま舞台にして少し加工すれば面白いと思って、色々なイメージが出てきました。
天賦典式という形でコンセプトを広げればいいと思って、どんな身体にハンディーがあろうが、精神的にハンディーがあろうが、生き物としての尊厳みたいな事を思い出して、天賦の才能にしようと、体が宝だと言うようなことから始まりました。
1972年に独自で舞踏集団・大駱駝艦を旗揚げしました。

金粉ショーで若い人が動くと言うのを売りでやってみようとしました。
舞台で20分なら20分、えっと思わせたいと言う思いが出てきて、急に奇声をあげたり突然松明をお客さんに放り投げるとか、スタンドプレイをして目をこっちに向かせたいと、色々なことに目覚めると言うことはありました。
結構お金は儲かりました。
そのお金で劇場を借りて踊りに注ぎこみました。(20年位続ける)
1982年に初めて海外公演をする。
日本で前衛と言われているものがこういうものだと素直に受け取ってくれる。
アメリカンダンスフェスティバルは歴史があり、お客さんの眼が高い。
今年で大駱駝艦創立46年目になります。
3月に新国立劇場でも公演しました。
舞踏も曲がり角に来ている。
もう一度見直したいという気持ちがふつふつと出てきて、舞踏全体をもっと浮き彫りにする努力はしていきたい。
生きているのが、あらゆるる仕草、動作、精神的な作用みたいなものが全部踊りだと言うふうなことが判ってくると楽しいと思います。
20年前に胃がんの手術をして4/5を切除、筋肉がたるんでこないようにはしているが、筋肉を鍛えたり歩いたり走ったりしています。