2018年5月15日火曜日

村上真平(農園代表)            ・“自然農園”の夢、ふたたび

村上真平(農園代表)            ・“自然農園”の夢、ふたたび
福島県生まれ、59歳、実家の農業を継ぐため三重県にある愛農学園農業学校で有機農業を学びました。
卒業後は20年間インドやバングラディッシュで農業の指導に当たり、帰国してからは福島県の飯館村で自然農法による農園作りに取り組んでいました。
村上さんが考える自然農園が実現しつつある矢先に東日本大震災、全てを失ってしまいました。
最終的に母校を避難先にした村上さんは三重県を拠点にして再び自然農園をスタート、持続可能な自然農法を通して新しいコミュニティーを作りたいとお話してくださいました。

福島県では藤の花が咲くと霜が降らなくなり、きゅうり、いんげんとかの苗を畑におろすということをしていました。
こちらに来ても同じです。
花、鳥の声、カッコウが鳴けば苗を植えても大丈夫だと福島では言っていました。
こちらに来て5年目になります。
標高が640mあります。
若干温かいがあまり変わらず、福島でやっていたリズムとほとんど変わらずにやっています。
自然農業は有機農業という一つのカテゴリーの中の一種で、自然のルール、自然が持続可能に何万年も築いたルールに沿った農業と考えています。
自然の森にはさまざまな虫などがいて、あれほど持続可能なものはないです。

持続可能性は3つのものによって作られている。
①植物が育って行く中で、植物、動物、微生物という、植物は太陽によって光合成をして食べ物を作る、それに動物が乗る、そしてどちらも死んでしまえば微生物が分解して戻して来る、循環というものが森林では行われ土が豊かになって行く。
疲弊することがない。
②生命は循環しているが、一つのものに頼らない。
安定するためには多様性が絶対必要で植物、動物、微生物が多様になる。
多様であるがゆえに様々な条件の中で生きていけるものがあり、それが繋がって循環している。
安定性は多様性から来ている。
③多層性、土、森の土は落ち葉により覆われていて、草、小さい木、中間の木、大きい木
という訳で多層に覆われている。
森は動けないので育つためには太陽の光、雨が必要で、この多層性が、太陽であれば強い光は上の方が使ってだんだん弱くなるに従って全部使って、太陽の光を最大限に使うシステムがある。
雨はショックをやわらげて出来た土を流さないように必ず守っている。
水源は森がショックを和らげてゆっくり土のなかに溜めて行くのでそれが水源になる。
太陽と雨を最大限に使うシステムを森が持っている。
最大限に使いなおかつ安定する多様性がもので循環している。
①循環、②多様性、③多層性が持続可能にする一番の基本だと思っています。

農業が1万5000年前に始まった時に先ず森を切る。
多層性が無くなってしまう。
自分の好きなものだけを植えるから多様性が無くなる。
収穫して持って行ってしまうので循環が壊れる。
農業は自然が持っている、循環、多様性、多層性を無意識に壊している。
豊かな土地が砂漠化している。
そこから自然農業は自然が持続可能にしている、それを農業の中に取り戻してゆくというふうに考えています。
飯館村で自然農園を作ってきた。
2002年から2011年まで9年間行ってこちらに移って来ました。
草生栽培、なるべく耕さないということを考えました。
土の上に有機物をおいておくと土がどんどん柔らかくなる。
作物の間には草が生えてくるが、或る程度大きくなると切ってそこのは畑に帰してあげると言うことをやってきました。
妻は結婚する前、自然食レストランをしていました。
2003年に結婚、飯館村で自然農園を基にしたエコビレッジコミュニティーと言っていた活動をしていました。
レストラン、石窯パン工房、農家民宿、海外の有機農業を勉強しに来た人たちにも教えていました。
賛同してくれる人が増えれば、自然に対して負荷のない生き方が出来るだろうと思いました。
2011年にはほぼ思惑通りの環境が出来上がり、2011年4月には一緒にと言うことで1家族が来ることになっていました。
イメージしてコミュニティーが出来ると思っていました。

原発に関しては勉強していました。
自動停止したということでほっとしたが、夕方になった時に非常電源が津波でだめになって外部電源は鉄塔が倒れて駄目で、バッテリーで1時間ということを聞いた時に、最悪は原子炉が飛んでしまうのではないかと焦りましたが、その後インターネットで調べたら冷えてきているような情報がありました
妻が夜中の2時に出先から来て避難しようと言ってきました。
インターネットで調べてみたら原発が冷却できなくなったと言う事だった。
直ぐに出ていこうと言うことで家族5人、研修生一人とで12日の明け方3時に妹の家がある山形県米沢に行きました。
その後妻の実家の浜松に行きました。
その後行き場のない人たちが20人ほどいたので、愛農学園に電話をして一時避難をさせてほしいと頼みました。
16日に他の避難者を含めて愛農学園に行きました。
昔16歳で愛農学園に来ましたが、当時愛農学園は4年制でした。
愛農学園はキリスト教を基本的な考えにして有機農業を教える農林高校でした。

長男なので、父親は卒業後継いでくれると思っていたが、2年間自由な時間を欲しいといったら良いと言ってくれました。
自転車での日本一周をするということで始めた半年後に戻って欲しいと言われて、もどりました。
その間に父親と決裂してしまいました。
世界中のどこに行っても生きていける人間になりたいと思ってインドに行くことを決めました。
それが人生の転機になり、20年間海外で暮らすことになりました。
貧しい人々に対してやっていることに色々考えて、シャプラニール海外協力の先駆けみたいな団体からバングラディッシュに行ってほしいということで行きました。
3年過ごすうちに農民と農業のあり方が非常に大きな問題があり、有機農業自然農業を進める方向に行きたいと思いました。
有機農場を作ったり、それをトレーニングすると言う仕事をしていました。
60,70年代からは種も買ってくる、農薬を使い、化学肥料を使って出来た農産物は安いということになって来ました。
有機農業がそういうことを解決するものだと思いました。

自然を収奪しないやり方。
環境問題、温暖化など様々な問題があるのは、人間が自然との生き方に対して利用はするが、循環の作用の中で生きて行くことを忘れていることが大きな問題になっていると感じてきています。
今は貧富の格差が物凄い。
世界のトップ8人の持っている財産は貧しい人の35億人と同じだというからむちゃくちゃです。
発展途上国など弱い立ち場の人達を搾取するようなことには関わりたくないと、飯館村で始める時のモットーとしました。
学ぶ場にしたいということで研修を一緒にしたいという事に関しては受け入れています。
フランスから一週間ほど研修に来たりもしています。
子供達の料理教室もやっています。
そのほかにも農産加工の物をワークショップでやってみたいと思います。
自分でものを育てて出来たものを調理するとかしたら、もっとそういう場ができると良いということで繋がって行く、そして農に関わって行く場所を作ろうと言うことで始まっています。