奥山景布子(作家) ・尾張から日本の未来を見据えた男
1966年愛知県生まれ、名古屋大学大学院博士課程を修了後、教員などを経て創作を始めます。
2007年、戦に敗れた平家に仕えていた女性の悲哀を描いた、「平家蟹異聞」でオール読物新人賞を受賞、デビュー後も名古屋で執筆を続け、最近では子供向け歴史小説なども手掛けています。
去年12月には幕末の尾張藩主徳川 慶勝と3人の弟を描いた長編小説「葵の残葉」を発表しました。
本ばかり読んで人と付き合うのが苦手な子供時代でした。
父の工場のダンボールの中に入って本を与えられて、本を読んでいたりしました。
(幼稚園から小学校1,2年の頃)
一人で過ごさなくてはいけないので、大きな音の中で本を読んでいました。
伝記(紫式部、ヘレン・ケラーなど)多く読んでいました。
東京に身を置くよりも、地方都市に身おく方がプラスな面もあるので、何の疑問をもったこともないです。
名古屋に居たから書けたというのが「葵の残葉」。
尾張徳川家14代の藩主徳川慶勝(よしかつ)と3人の弟を描いた長編歴史小説。
尾張藩の傍系である高須松平家に生まれる。
徳川慶勝の3人の弟は徳川慶勝の次に尾張藩主となる徳川茂徳(もちなが)、会津藩主の松平容保(かたもり)、桑名藩主の松平 定敬(さだあき)、この兄弟。
「葵の残葉」は幕末敵味方として戦うことになってしまう4兄弟を描いた長篇小説。
徳川慶勝公は幕末のキーパーソンですが知名度が低い。(地元でも)
初代尾張藩主徳川義直(とくがわよしなお)徳川家康の9男。
官軍が江戸まで行く間にかなりの距離時間がある筈で、易々と進軍出来たのかおかしいと思う。
徳川系の藩が攻撃もしないで通してしまったのか、実はそれに深くかかわったのが尾張家で、そこについては何にも出てこない。
豊臣方の進攻、本来西からの備えに対して抵抗すべき人々が配置されているはずなのに、官軍がやすやすと突破できたのは尾張徳川家、徳川慶勝公の存在が凄く重要であるが、何故今まで語られなかったのか是非知ってほしいと思います。
戊辰戦争は会津ではなくて尾張だったかもしれないし、日本が二つに割れてとか、そこに外国が付け込んできてとか、今の日本はなかったかもしれないと思います。
尾張藩の歴代藩主が主に政務をとっていたのは二の丸御殿でした。(現在はない)
尾張勤皇青松葉事件遺跡という石碑が建っています。
朝廷を中心にした新しい政治の動きがあり、一方で幕府が政治をするものだという考えもあり、尾張がどちらに付くのか気にしていた。
徳川慶勝公がその選択をするのに家中の幕府方に近い考えの藩士を処刑したり、蟄居謹慎とか厳しい処分を課したりしたのが、青松葉事件です。
犠牲があったお陰で戦場にならずに済んだし、東海道、中山道沿いが戦場にならなかったのはこの事件があったからこそだと思います。
14人の死者があったことを美的に語るのではなくて、有ったことを忘れないでほしい。
鳥羽伏見の戦いで新政府軍が圧勝して、慶喜が逃げてしまうが、京都にいた慶勝公の立場が悪くなる。
慶勝公と松平春嶽(容保)はそれまでは慶喜公と朝廷できちっと話をさせようとして、出来るだけ戦わないで、朝廷と幕府での新しい体制を作るのに参加して欲しいと言う動きをしていた。
逃げてしまったのでいっぺんに立場が悪くなってしまった。
朝廷方から忠誓を誓うことを見せろと言うことで家臣を粛清しなければいけなくなった。
岩倉具視から京都から帰って幕府側に付くのなら勝手にどうぞ位に云われたようで、後から助けを求められても知らないよ、と冷たく言われてあえて戦うことをしなかった。
慶勝公は新しい物事が好きで、西洋事情にも明るい方だったようで内戦をしていたら西洋列強に日本が分割されてしまうかもしれないという危機感を持っていて、あえて泣いて徳川方を切って、新しい体制に尾張方が参加する方を選んだということだった。
慶勝公は写真が好きで自画像なども撮ったり、名古屋城の写真なども撮っている。
現像液を含め写真に関するいろいろな研究もしていた。
兄弟の写真も全部残っている。
長州の征討に慶勝公は出かけるが、出来れば丸く収めようとしていたものと思われる。
長州は3人の家老の首を差し出して戦争にはいたらなかった。
慶勝公は今は内戦をしている場合ではないと、確固立たる信念のもとに戦いを行わなかったと私は思います。
明治11年に兄弟4人で写っている写真を見た時に興味を持ちました。
調べれば調べるほどスケールが大きくなりました。
膨大な資料の中からどれを取るかということを考えなくてはいけなくて、何処まで捨てて書き切るかというふうに収斂していきました。
第一次長征の時には西郷が参謀を務めたが、西郷さんの写真を撮っていたら面白かったなあと思いますが。(対面シーンを想像して小説には書きました)
大きな声の方に耳を傾けがちですが、黙って全て自分の中に収めて退場してしまう人が中にはいますが、そういう人達が実はどんなことを考えていて、物事を考える時間をどう過ごしたのか、もう一回注目して人間を観察する必要があるかもしれません。