内藤啓子(長女) ・【わが心の人】阪田寛夫
詩人、作家 大正14年大阪生まれ、東京大学卒業後、朝日放送に入社、ラジオ番組の制作などに携わりました。
しかし文筆業に専念するために退社し、昭和50年には「土の器」で芥川賞を受けました。
また童謡「サッちゃん」「歌えバンバン」「夕日が背中を押してくる」など作詞者としても知られています。
平成17年阪田寛夫さんは亡くなられました。(79歳)
昨年「枕詞はサッちゃん」を出版。
父は小説とノンフィクションの中間見たいなことをコツコツと丁寧に書いた人でした。
阿川佐和子さんとは幼馴染で中野区の鷺宮の20軒ほどの団地の中で一緒に育ちました。
「強父論」を阿川佐和子さんが父のことを書きました。
「サッちゃん」は佐和子さんがモデルになっていると言われているが。
実はモデルの方に迷惑がかかってはいけないということで父は黙っていたが、大坂の幼稚園の一期上にさち子さんと言う方がいて、名前の響きが好きなのと風のように走る女の子で、初恋だったのかなと思うんですが、阿川さんとの対談でようやく発表しました。
言葉と曲がぴったり合っていて、一字一句変えられないと父は言っていました。
父が亡くなったとに、大阪の幼稚園に歌碑が出来ました。
妹(大浦みずき)と一緒に除幕式に行きました。
阪田一家と吉田一家(母の家)は近くに住んでいました。
共に裕福なクリスチャンの家庭で、南大阪幼稚園を作るにあたっても両家が力を尽くして、「サッちゃん」のモデルは一期生、父は二期生、母は三期生でした。
父は悪ふざけする感じの子だったようです。
母は8人兄弟の末っ子で物おじしないタイプで大柄な人でした。
阪田家の長男のかずお?と吉田家の長女のみえが恋愛結婚して、その二人がめんどうな親戚を増やしたくないということで弟と妹をくっつけちゃえと言うことだったようで、母はみんなが結婚せいと言っていたからしょうがないから結婚したわと言っていました。
父はラジオ番組の制作などに携わりましたが、退社して文筆業に専念するようになりまた。
すでに「サッちゃん」の音楽著作権料が入って来ると言うのも一つの要因だとは思いますが。
両親が毎日大喧嘩していました。
或る時「今日から俺を叔父さんと呼べ」と言い出したんです。
離婚するということになって、言われたその日から「叔父さん」と言い出しました。
でも結局離婚しませんでした。
母も3回危篤になり、父も最後に具合が悪くなり、聴覚は最後まで残るので呼びかけなさいと言われて、「叔父さん」とか言ってしまってはまずいので名前を呼んでお茶を濁しました。
父は外面が良くて、外ではほとんどしゃべらず照れ屋で自意識過剰なタイプでした。
家族でどこかに行くことは皆無でした。
しゃべらず照れ屋の父が詩「猫を飼う規則」を朗読する。
父はメモ魔でなんでも書いて取っておくので、母は燃えるごみにすればすっきりすると言っていました。
一作品に段ボール一箱あり、書き上がっても取っておくわけです。
私に清書の鉢が回ってきました。
昭和40年代前半にドラマを担当していましたが、筆が遅かったです。
出来栄えについては常に聞いてきましたが、その対応が難しかった。
手紙を出した手紙のコピーなども残しておきました。
ユーモアの感覚は詩の方に生かされていると思います。
「おなかのへるうた」 作詞 阪田寛夫 作曲 大中恩
大中恩さんは阪田寛夫のいとこです。
旧制高校は高知で三浦朱門さんとは寮で同室でした。
その後もずーっと交流が続きました。
まど・みちおさんと一緒に詩集を出したりしています。
父はお金には恵まれませんでしたが、まわりの方には恵まれたと思います。