2018年5月10日木曜日

吉岡秀人(医師)              ・“日本の心”で人を救う

吉岡秀人(医師・ジャパンハート最高顧問)   ・“日本の心”で人を救う
52歳、2004年国際医療支援団体ジャパンハートを立ち上げミャンマーを中心にカンボジア
ラオスなど東南アジアの発展途上国で支援活動を続けています。
1年のうち8カ月は海外に行っているという吉岡さん、支援活動の現状とジャパンハートを立ち上げる迄の道のり、医療にかける思いなどを伺います。

ジャパンハートと名付けた思いは日本の文化、伝統から生まれる考え方に裏打ちされた国際協力の支援の仕組みがきっと世の中にとって相当役に立つだろうと、欧米とは違った日本人にしかできない国際協力をやっていこうという思いを込めています。
欧米などの考ええ方は満たされたもの、豊かなものが義務として貧しきもの弱いものを助ける、そこに彼らの誇りなり喜びがあるが、日本人はちょっと違って自分が貧しくても人を助けることに美徳があり、相互扶助的な感覚ですが、僕らのカルチャーを使って世の中に貢献していこうと言うことです。
日本発祥の国際医療ボランティア団体は珍しいです。
日本は戦争に負けてから国際性が一旦落ちてきて、ヨーロッパなどは長い伝統があり元々豊かで、経済だけでなくて、周辺も発達してきた。
日本は戦争後経済だけは発展させてきたが、周辺分野の意識は仕組み作りから遅れてきた。
NGOなんかでも評価されているということはないんじゃないでしょうか。

日本人は英語が出来ないといけない、とかフランス語が出来ないといけないと思っている。
何故かと言うと日本の国際協力の大きなNGOがないから、この一言に尽きる。
多国籍の所に日本人が混ぜてもらって、言語を覚えていかなくてはいけない。
英語圏の人達がいて日本人はカルチャーは違うが入ってやると、ほんとうはその国の文化伝統を生かした、慣習を共有した同じ国の人が入ってやっていて意志の疎通も取り易い、考え方も共通しやすい、それぞれの団体にはポリシーがあってそれぞれの国のバックグラウンドにしたポリシーがある。
日本人がアメリカ人に混じっても日本人のカルチャーが出せるかというと出せない。
多様性とか日本人のいいところが発揮できないので、そういうのを解消するためには日本から国際的なNGOを作るしかないと言うことです。

高度な英語のコミュニケーション能力が必要で、アメリカに語学留学を3年間する、その間に国際協力を辞めてしまう人が9割以上います。
そのエネルギーがあればどれぐらいの人たちの役に立てただろうと考えた時に凄いことになっていると思う。
その仕組みを作ればいいというのが僕の発想です。
現地の人は英語を話せないので英語を覚えるなら現地語を覚えてほしいというのがスタンスです。
ミャンマーを中心にカンボジア、ラオスなど東南アジアの発展途上国で医療の支援活動を続けています。

手術、特に子供の医療を中心にやる団体で、日本でも医療者の足らない地域医療の現場場、へき地、離島に支援という事で送っています。
医療は体だけ治したらいいというわけではなくて、心のケアも非常に大切で、こういう分野にも積極的にかかわっています。
小児がんは日本で2500人から3000人新しく小児がんになり、この中の数十%は亡くなってゆくと言うのが現実です。
当人の治療はするがメンタルな部分、家族のメンタルなことが発生するが、今まではそういったことは考えていなかった。
経済的な問題等も出てくる。
元気な間に家族と一緒に思い出を作ってあげるとか、旅行に一緒に連れていくとか、兄弟同士の時間を作って医療者が付き添ってあげる、スマイルスマイルプロジェクトと呼んで活動しています。

東南アジアでは今は、エイズ、マラリアなどで死んでゆく人達がいます。
田舎ではいまだに電気が通っていない所がおおい。
病気しても医療機関にアクセスできない。
カンボジアには大きな病院を作りました。
ミャンマーでは外国に対して受け入れが厳しい政府と、優しい政府があり、状況に合わせて病院を借りたり作ったりしています。
仏教のお坊さんが運営している病院がありその病院を借りて治療をしたりしています。
薬には問題があって、アジアで出まわっている薬は中国、インド製で物凄く質に問題があって全く効かないとか。物凄く効きすぎるかということがあります。
同じ量の麻酔でも効かなかったり、効きすぎたりしてしまう。
同じ種類の薬を日本製に変えたら効いたということが度々あり薬の扱い方に本当に困っています。
日本の企業が早く海外進出してそういう薬を駆逐していってほしいと思います。
現地のニーズに合わせて作るプロジェクトでないと上手くいくわけがないということが僕の考え方で、そうすると政府の補助金は使えないので多くは寄付と自分達でお金を生み出すことも一部やっていて成り立っていて日本ではかなり珍しい組織だと思います。

医師、看護師、ボランティア等がみずからお金を出して医療活動に参加するというスキームを作った訳です。
一人参加するのに6,7万円、他に航空券、保険代も自ら払って医療活動する事になります。
今は700人ぐらいいます。
2020年までには1000人にもっていきたいと思っています。
この方法は日本らしいところだと思います。
いまの若い人達は物から精神的な豊かさにシフトしています。
精神性の高いことが出来ると言うことは意識の進化だと思います。
ボランティアの期間はそれぞれで2,3日から2,3年ということもあります。
24,5年前は医療で国際協力には決死の覚悟で行けと言われていて、帰ってきたら就職先もない、いったら年収は途絶える、結婚はできない、家庭は持てないそういう覚悟で行けと言われていたが、僕は或る時気付いて国際協力をするのに覚悟はいるのかなと、今はアジアは発展してこの時代に東南アジアに国際協力に行くのに決死の覚悟が要るのかと気づく訳です。

時代に合った仕組みがあるのではないかと思いました。
休暇を使ったりして出来る範囲でいいと、何も犠牲にする必要はないと思います。
1人の人間がが決死の覚悟で1年行ってくれるよりも、100人の人が3日間行ってくれた方がよっぽどバリエーションが高まり良いと思ったんです。
現実に数百人が集まり増えていっています。
人の育成については言葉は限定的で生きる雛型を見せておくといいと思っていて、人と接する時に応対、表情一つで伝わることはあってそういうことを若い人たちに伝えて行く事が一番の教育だと思います。
医療は失敗したら人の体が壊れる命を失うので、努力が足りない人に対しては怒ったりするのは当たり前なのでしっかりやります。
現地の医療担当者を丁寧に扱って一緒にやる事によって現地の人の心も動いて信用してくれるようになる。
言葉があまり出来なくても時間を掛ければ伝わって行くものだと思います。

1965年大阪の吹田市の生まれです。
地下道に手足をなくした人が軍服を着て、暗くなると帰って来て子供の頃それを見て気持ち悪かった。
同じころに大阪万博があり、同じ街でそういう姿があり、そこで僕は育ちました。
1965年は中国では毛沢東の文化大革命が始まり、その後数千万人が餓死したと言われ、ベトナムではアメリカが空爆して、数年後カンボジアではポルポトが国民の1/4位殺して、韓国では80年代までが軍事政権で、飛行機で1、2時間程度の場所の差、20年程度の時間の差、人の運命は僅かな時空のずれでこんなに変わるものだと中学校のころに、はたと気が付きました。
時間と空間のずれたポイントに僕は幸運に生まれてきて幸せだと感じて、何か世の中にしなければ申し訳ないと思いだしたのが、10代の頃でした。
思い付いたのが医者しかなかったので医者になろうと決心しました。
大分大学医学部に行きました。
大学病院の医局に入ると組織の関係で抜けられなくなるので、最初から民間の救急病院に入ってしがらみから抜けることと、一日も早く技術を身につけることにしました。
2、3日に一回は当直があり厳しかったことはあります。
途上国に行くには産婦人科の治療が出来ないとだめなので、学ぶために鎌倉の産婦人科へ数か月ステーして、その後通いました。
夕方まで大阪で診察して新大阪までダッシュして新幹線でいって鎌倉に午後11時ごろに着いて、寝れるのは行き帰りの新幹線の中でした。
着いた翌日の夜8時まで産婦人科で働いて最終の新幹線に乗り帰ったら又救急病院で働きました。
それを1年位週一回やっていました。

ミャンマーでは20万人の日本兵が亡くなりその遺族の人による慰霊を行ってきたが、老齢化して慰霊が続けられなくなって、(1995年の時)ミャンマーで医療をして助けてほしいと彼らがWHOに相談していて、あるNGOを紹介されてそこから僕の方に連絡があってミャンマーに行かないかと相談がありました。
若かったし一人で行きました。
行ったところは8万人の街でした。
政府の作った診療所を巡回診療していました。
生まれたばかりの奇形児がほったらかしになっていたり、大やけどの子が皮膚が滅茶滅茶にくっついたまま生きているとか、日本にあるあらゆる病気があり、エイズは蔓延していたし酷い状態でした。
自分に与えられた中で何処まで出来るのか、何処まで挑めるかだけだと思っています。
自分の心にしたがってやってきただけです。
究極にたどり着いた結論というのは、あらゆる苦労は自分の為にやっている、苦労から得たいろんなことが自分の為の将来の役に立ち、今も役に立っている。

そのことが自分の中で理解出来ているから、その苦労を受け入れて生きている。
苦労して得たものは自分の存在の尊さです。
人は自分の事をどれほど大切に思えるか、そのためには自分がどういうものなのか理解できないといけないが、でも人間って自分の事を理解できない。
ぼくらにとっての鏡はなにかというと世の中なんです。
僕はやっていて、そうするとみんなが喜んでくれる、そうするとあなたは大切な人です価値ある人ですというメッセージを、直接的ではないが彼らは発信してくる訳です。
それが僕の中に降り積もって来て、自分の事を自分が大切に出来るようになる。
そうすると心から人の事を大切に出来るようになる。
どんどんやればやるほど世の中の人が喜んでくれる。
人を助けたら僕のことを助けたいと思う、僕に対して何かしたいと皆が思ってくれる。
皆が僕を大切にしてくれるようになる、僕が得た一番のものは結果的には、自分の人生を大切にしよう大切にしようと生きていたら、世の中の皆が僕のことを大切してくれるようになった。
これが僕が得た一番大きなものなんです。

ジャパンハート 2004年に立ち上げましたが、僕の目から見てろくな組織がなかった。
人の命を数量だけで数えているような人ばっかり周りにいて、医者としての生きざまにとって大切なことでこういう人達と一緒に医療をやって行ったら僕の人生がすり減るなと思ったんです。
助からないかもしれない子にお金を掛けて働き掛けるという発想はまずないです。
それでも家族の精神的なこと、その子が生まれてきて良かったと思ってもらえる医療があると思って実現するために作るしかないと思ったのがジャパンハートです。
小児がんへの取り組み、治療の概念を変える、治療だけだったものに加えて家族へのメンタルなこと、経済的なことを含めてアプローチするのが医療なんだと言う形で日本社会に発信していきたいという思いがあります。
医療の奥にある色々なものにアプローチする、それは医療者だけでは出来ないので多くの人に活動に協力して貰って、もっと大きな医療を作って行くというのが僕の目標となります。