2017年4月14日金曜日

木之内均(イチゴ農園経営)     ・阿蘇に生きる、半歩でも前へ

木之内均(イチゴ農園経営) ・阿蘇に生きる、半歩でも前へ
熊本地震から1年、南阿蘇村立野では大規模な土砂崩れが起き、家屋の損壊、橋の崩落など大きな被害を受けました。
木之内農園は関東出身の木之内さんがおよそ30年前に一人で起こした農園です。
当時阿蘇では珍しかったいちご狩りの観光農園やジャムなどの加工品のアイデアで先進的な農業経営で全国的にも注目されていた農園でした。
昨年の大地震とその後の豪雨の影響で現在も農園は8割が使用できない状況です。
地震から1年、農園を取り巻く現状や 木之内さんの今の思いを伺います。

橋が崩落して先には行けません。
道路は新しく作り直しています。
少し残ったところで畑を耕して、これからジャガイモを植えます。
10ヘクタール近く作っていましたが、8ヘクタールが修復作業に提供していて、農業はごく一部しかできません。
飲料水の水も出なくて農業用水は何時になるか判りません。
水がないのでハウスは全く何も作れない状態です。
橋、道が出来たあと土砂を取り除いて元の畑にする作業があるので、5~6年かかるのではないかと思います。
社員は9人います。(12人いたが辞めた人もいます)
加工場も水が止まっているので12km先から水を毎日汲んできています。
事務所も石垣が崩れて解体しないといけません。

観光のトロッコ列車も止まっています。
今年の梅雨の時期に崩れる可能性もあります。
ハウスが10以上あるが橋の工事のために全部たちのかないといけない。
年間5万人のイチゴ狩りに来て居ましたが今年は全くないです。
農業ボランティアでジャガイモの植え付けをしてもらっていますが、本当にありがたいです。
助けがなければ事業自体が成り立たなくなってしまいます。
地震後、1年は早かったなあと思います。
現場では復旧の入口です。
14日の地震は阿蘇は何にも影響がなかった。
熊本は地震がないといわれていて、前震があった時はこれで地震は終わりだと思っていた。
夜中に本震が来て、陸路が崩れて通れなくて缶詰になりました。
橋が落ちてなければ会社まで5分ですが、会社に来たのは3日目の夕方でして想像を絶する揺れでした。

ベッドにはいつくばっていた感じで揺れが長かったです。
家が滑り落ちているのではないかと思いました。
皆さんには是非懐中電気を枕元に置いておいてもらいたい。
娘の部屋に行くのに物が崩れて居て、何も見えないし、ようやくたどり着いて娘がスマホを握っていたのでその光で2階からようやく降りてこられました。
水槽にウナギを飼っていたが、ありとあらゆるものがめちゃめちゃでした。
懐中電灯を探したが置いてあるところに無かった。
ようやく懐中電灯を探して、集落に行ったが殆ど家がつぶれて居ました。
姪が堀炬燵に隠れたが挟まれていてしまいなんとか助けたが、半年ぐらいは家の中に寝られなかったです。(ワゴン車に寝て居ました)

立野地区の人は大津町の仮設住宅に行ったり親戚にいったりしています。
私も大津町にアパートを借りて居ます。
山にはまだ亀裂が入っていて、地震よりそのあとの集中豪雨で崩れた山の方が多いです。
今年の梅雨で又崩れるのではないかと心配です。
戻ってきたところで水田での仕事がないということもある。
滝野病院があるが100人を超える雇用をもっていたが、ここも閉鎖になっている。
私のところもパートさんの雇用はできなくなった。
若い人は離村の可能性が高いです。
うちは観光農園で規模も大きかったが、今の規模を維持するには他のところには無くて、
他に移る事はできない。
なんとか時間はかかっても立野でやろうと思っているのが会社の方針です。

大学が農学部で子供のころから農場主になりたいと思って現在に至っています。
立野は棚田で外輪山の切れ間に在り、まつぼり風が吹くところで条件のいい場所ではない。
昭和60年ごろは地価の高い時期で場所のいいところには入れなかったので、ここが借りられた。
そして少しずつ大きくなってきた。
私はもともと動植物が大好きでした。
子供時代は川崎にいたので川崎ぜんそくになり、苦しい思いをして、親が引っ越しを決断して町田に行き、周り中山と畑しかなくて、本当にうれしかった。(小学生の頃)
動物を飼うのが好きでしたが、餌の確保に苦労して最終的には自分でお寺の畑を借りて作業して餌を作るようになりました。(小学校5年生の頃から高校まで)
肥料には家のトイレから取り出して利用したりしていましたが、近所から文句を言われたりしました。

34歳のときにあごにがんが出来てリンパに転移していたら長く生きれないといわれて、半分死刑宣告を受けたようなもので、その時若い者たちが家にいてくれて居なかったら100%つぶれて居たし、農業は諦めざるを得なかった。
彼等に何か恩返しをしたいと思って、出資をして取締役になりチームをまとめていけば自分が死んだ後でも続けられるかもしれないと思って、彼等を呼んで会社にしないかと言って、それが有限会社にする大元なんです。
農業はたんぼまで水を引っ張ってくるには何km言う水路が必要で、農道管理もそうだが地域の人たちが共同で守っている。
野焼きもみんなでやっており、野焼きをやめたらブッシュになり阿蘇の景色も見渡せなくなる。
一人ではできないので地域をどういうふうに大切にするかは避けては通れない。
若い後継者が減っているので人材を育成してゆくことも大事です。

無一文から始めて大病したりしてやってきましたが、「危機はチャンス」という言葉がありますが、今度の震災も大きな危機ではあるが、発展的な復興を願っています。
ここは阿蘇の玄関口なので、外輪山を越えないと阿蘇に入れない、立野が唯一の切れ間になっていて通れるところなので、この地区は必ず建て直ると思います。
地域に産業が根付いてないと人も住めないし活気も出てこないので、初めからもう一度作り直せるので、観光農園を作りなおしたいと思っています。