2017年4月4日火曜日

伊藤ゆき(ネパール研究者)     ・ネパールに魅せられて40年

伊藤ゆき(ネパール研究者)     ・ネパールに魅せられて40年
ネパールについての講演やコンサルティングなど幅広く活躍されている伊藤さん、伊藤さんは埼玉大学付属図書館の秘書で仕事をする傍ら社会人の山岳会に所属して国内の山に数多く登っていたそうです。
34歳のときに4人の子育てが一段落したのをきっかけに、ネパールへの3週間のトレッキングにでかけて、これがきっかけでネパールの民族、文化に関心を持つ様になりました。
帰国してからはネパールの言葉や民族について学び、日本ネパール協会などで川喜田二郎や、西堀栄三郎たちの指導を受けました。
1991年には在ネパール日本大使館専門調査員としてネパールにおもむいて、そのときは選挙戦を取材したり、航空機の墜落事故の捜索などにあたったりしました。

9年間で44回行っているので、年に4~5回行っていて、平均で2週間ぐらい滞在していて、3年間向こうの大学に勤務していました。
友人の家に居候させてもらっています。(2人います)
私の指導をして下さった文化人類学者ドール・バハドゥール・ビスタ先生、彼の指導がなかったら今の私は無かったと思います。
35年前ごろ上智大学の大学院で勉強されていた人で、彼女は今年日本外務大臣賞を貰った人です。
いつも彼女は憧れですし、指導する素晴らしい方です。

ネパールは5月下旬から10月初めまでが雨期で、後は乾期になります。
4月は暑くて水はなく、電気は停電になったりします。
ヒマラヤは4月になると湿気を帯びてきてカトマンズからは見えない。
12月から1月半ばまで3つの調査をしました。
①日本で技能自習制があるが、ネパールに帰って技術が生かされているかどうかのフォロー調査。(国交省に応募しての調査)
②教育の調査、留学生が急増しているがどうして日本に来るようになったのか、ネパールでは困っているのではないか、社会の変化等有るかどうかなど。(私立大学からの依頼)
③自分のライフワークのような調査、アンナプルナ、ダウラギリという8000m級の山が有りますが、その裏側に小さな村があり、総人口1万4000人ぐらいのタカリ族という民族があり、12年に一度お祭りをしていて、3回目の調査です。

村の形が変わって来ている。
この村は日本と大きなかかわりを持っている。
村の男性の8割以上が日本に出稼ぎにきたことがあり日本語が飛び交っている。
日本で稼いだお金で起業したり、ホテル経営、教育などにつぎ込み経済に大きな役割をしている。
お祭りもその資金でやっている。
タカリ族は清潔で一番良い台所を持っている。
ネパールでは2015年に大地震がありました
王制だったが、2008年からネパール連邦民主共和国になりました。
ヒンズー教が国教でしたが、今は85%はヒンズー教、仏教が10%、イスラム教、キリスト教もいます。
山の方の人は仏教が多いです。

海抜80m~8849mまでヒマラヤの南斜面にへばりついているような国の地形です。
面積は北海道の1.8倍、2850万人、山間の人たちはモンゴロイド系、南はアーリア系の凹凸ある顔をしている、穏やかな人達です。
GDPは2500ドルぐらい、日本は40000ドル程度。(比較は無謀のような気がする)
食べることには困っていません。
大きな国に囲まれているが、一度も占領されたことはない、賢い生き方をしている。
したたかさ、人を読む力がある。
30年前は500人ぐらいしか日本にいなかったが、現在は出稼ぎ、留学生、技能実習生など85000人ぐらいになっています。
来るのにお金がかかるので、不法就労が起きてしまう状況がある。

高校時代シルクロードに興味があり、山をやっていたこともあり、山岳会もヒマラヤにやってきて、子育て後には何時か行ってやろうと思っていました。
1980年ネパールに3週間来る事が出来ました。
いろいろ民族、顔、家の形、言葉、子供の扱い方も違って、それが面白く、その衝撃がとっても大きかったんです。
民族の方に興味を持ってしまって、最終的にタカリ族にたどり着きました。
帰ってきてネパール語を勉強しました。(週に一回 片道1時間半以上かかりました)
押し掛けて行ってビスタ教授(文化人類学者)について勉強しました。
シェルパは民族名です。
川喜田二郎先生や、西堀栄三郎先生たちの指導を受けました。

ネパールの日本大使館の専門調査員をしていたときに、誰もが私を受け入れてくれて、まったく警戒心を持ちませんでした。
出稼ぎの夫の愚痴を女性たちから聞いてあげたりしましたが、夫が帰ってくるとガラッと変わってたりして女性は同じだなあと思いました。
妊婦さんに「何時生まれるの?」と聞いたら、恥ずかしそうに「生まれるときに生まれる」といわれ、人間って生まれるときに生まれて、死ぬ時には死ぬんだと気づかされました。
まず少しでも良いからお金を得て子供に教育をしたい、次に台所を綺麗にしたいということで、女性は経済的に自立すると云うことがとても大事なんだと云う事でした。

ネパール民法の家族法の中の女性の権利について日本語にして、歴史を解きほぐす仕事を論文にしました。
ジャパンスタディーセンターでは日本の文化、経済、社会の在り方などを大学院レベルまで教えるつもりで行ったが、とにかく日本に行って出稼ぎに行きたいと云う圧力が強くて、学問どころのさわぎではなかった。
日本語を土台にしてもっと伸びていってほしいと思いました。
経済学ではソニーの盛田さんが書かれた英語版があるのでそれを参考にさせ授業させて貰ったりました。
日本文化、生け花、日本料理なども教えたりしました。
日本との架け橋になるような人材育成をしたいと思っていまして、会社として仕事を始めて居ます。