2017年4月8日土曜日

向谷地生良(浦河べてるの家理事)   ・弱さを絆に

向谷地生良(浦河べてるの家理事)   ・弱さを絆に
北海道日高地方に浦河町に精神医療の常識を覆すと、世界から注目さわれているコミュニティー社会福祉法人、浦河べてるの家があります。
「べてる」とは旧約聖書の中にある言葉で「神の家」という意味です。
ここでは精神障害のある人達150人が全国から集まり、地域で働きながら共に暮らしています。
べてるの家のメンバーで特に多いのが幻覚や幻聴、妄想を伴う統合失調症です。
理事でソーシャルワーカーの向谷地さんはメンバーがたがいに助け合いながら病気と向き合い地域で生きる為のユニークな取り組みを40年近く実践してきました。
心の病に苦しむ人たちがどのように暮らしているのか、伺いました。

精神障害がある人たちがよりよく生きるためにさまざまな仕組み考え、従来タブーとしてきた幻覚や幻聴妄想との共存を目指しています。
本人たちに聞くと辛いし怖いし、その思いを聞いてもらったら楽になる。
私たちが辛い時に聞いてもらうと楽になるのとおなじなんですね。
単純に聞くのではなくて機嫌よく聞く、楽しい出来事、大事な出来事として聞くわけです。
自分で自分がイメージする病名を付けたらと言うとその名前が全部違うんです。
自己病名をつけ、ユーモラスに語り返すことで病気と言う経験を自分の生活の一部だと云うことで分かち合える。
みんなが培ってきた生きる文化だと思います。

理念があり、「弱さを絆に」、「昇る人生から降りる人生」、生きづらさを抱えた当事者が社会で生きて行くために生み出されてきたものです。
心の病はその人の生きづらさ悩みがに詰まった状態、その中で精神のバランスを崩して病気になっている。
助け合いは必要だと云う事が改めてわかる。
暮らしの中で煮詰まった生きづらさ、苦悩が最大化すればそれをどう生きるか自分らしく、自分のペースで模索して行く、それが生きることで生活すること。
大変ですが、自分のものとして取り戻すことは大切なきっかけになる。

日本の精神医療は入院を中心に考えられてきました。
多くは長期入院となり、病院を増やした結果、入院患者は世界でも突出して多くなっています。
べてるの家は昭和54年にはじまり、精神障害のある人が地域でどう暮らすか模索してきましたが、症状は一進一退でした。
必要以上の入院や薬には頼らない。
生きづらさを仲間に打ち分け、たがいに苦しみ、辛さを共有し、生き易さを目指す。
私は最初は混乱状態でどう対処していいか分からず、積み重ねの中で生まれて来ました。
おまえはだめなやつだとか、死ねとか、辛い状況に追い込まれて、そういった幻聴を共有します。

同情しつつ笑ったりする訳です、情けないけど笑える話があるわけです。
他の人の役に立ったとか、幻聴さんと喧嘩してはだめなんだとか、幻聴さんには優しくしてあげると突然帰ってくれるとか、幻聴さんが判ってくれたとか、やってみたらその通り幻聴さんが帰ってくれたとか、ということで受け継がれていって自分の経験が人の役に立ったんだと云うみんなにとって大きな経験です。
共同生活をしていて、グループホームでは仲間同士が悩みを語り合います。
最近まで治療の常識として、見える(幻覚)、聞こえる(幻聴)、誰かに狙われているとか、そういうことを語らせるとだめだという常識があったんです。(最大のタブーだった)
持って行き場がなかった、緩和させるのは薬と言うことで薬中心になっていた。
私たちの活動は、吃驚すると思います。

昭和30年青森県十和田市に生まれました。
中学1年の時に心の弱さに関心を持つようになりました。
先生と名の付く人とはうまくいかないというジンクスがあります。
担任の先生とはそりがうまくいかなかった。
議事の運営が杜撰だと云うことでみんなの前で、先生にコテンパンに殴られました。
事あるごとに体罰を受け、両親が学校に抗議、自宅療養になりました。
そんな時母親が教会に通うようになりました。
大学紛争の時代でもあり、入ってくる情報と自分の中の現実がミックスされて、大人になっていいんだろうかと、謎を聖書の世界とかに尋ねてみようと思ったりしました。
聖書には弟子に裏切られたりとか、情けないことがいっぱいあり、みじめさに興味、関心がありました。
キーワードは弱さでした、弱さをめぐるエピソードは惹かれるものはありました。

これさえなかったらというあなたの持っているトゲ、こそ私からの最大の贈り物だというメッセージがある。
トゲ、これこそ神様から与えられた恵みなんだと気付く場面があります。
自分の思っている抱えきれない弱い部分、自分の経験そのものに反転?(聞き取れず)した可能性があるかもいしれないと学んだ気がする。
当時公害、薬害の時代でもあった。
仕送りを断り、特別養護老人ホームを住み込みで働きながら大学に通う。(夜間介護人)
自分に根本的苦労が足りないと思ったので、決めたことはとことん苦労しようと言うことでした。
特別養護老人ホームでは不遇な人生を過ごした人が多かった、寝たきりとなり、ここに向かってゆくのかと思った。

大学卒業後病院でソーシャルワーカーとして働く様になる。
当事者と距離を置いて働くようにしていることを知ったときに、違和感を感じました。
寝食を共にしてきた経験からすると、ずれを感じました。
精神障害者に対する有る偏見のようなたぐいのものを感じました。
1年後使われて居ない教会を借りて共同生活を始めます。
精神科を退院したものの地域に居場所を失っていた人たち、後のべてるの家に繋がる活動です。
一緒に暮したらもっとそこでのことが判るのではないか、自分のことが分かるのではないかと思いました。(1979年ごろ)
退院した人たちは何かが欠けて居て病院に戻ってくる。

病院の上司から、訪問しすぎだとか、外へ出る回数が多いとか、電話が多すぎるとか、今日からは私の前から消えてくれと言われました。
目の前が真っ白になりました。
ちょうど結婚したばっかりだったし、この業界は狭いのですぐ事情が伝わるので、人ってこういうふうにして燃え尽きたり、鬱状態になったり出勤できなくなるのかもしれないと思いました。
べてるの家の仲間と共にきよしさん(幻覚、幻聴のある)に寄り添い続けました。
きよしさんは入退院を繰り返し、何かが不足していると考えてもさっぱり分からなかった。
もがき苦しむ中で、イエスキリストが旅の中で、あえて淡々と進むこの旅の風景が自分の中にあるのだろうと、現実的な行き詰まりの中にも、イエスの旅の物語をある種の肯定感が自分の中にベースとしてあるかもしれないと思いました。

病院を退職、べてるの家の仲間たちと歩み40年近くなります。
きよしさんは症状が落ち着き、入院することはなくなりました。
気心の知れた関係が生まれて、話が出来て、通じ合うものが生まれ人の心持が変わると、その人の抱えている生きづらさの心象風景が変わる、幻覚妄想が変わるんです。
その人の生きて居る物語が変わってきます。
2500人ぐらいの人が毎年訪れて居て、心に病に苦しんでいる人たち、関係者がべてるの家の哲学に多くの共感が寄せられて居ます。
絶望的な状況の中でうろうろさえしていればちゃんと突破口はある、そんな絶望の仕方を是非発信していきたいと思います。










































































生きて行くために生み出された