2017年4月27日木曜日

池田理代子(劇画家・声楽家)    ・強く美しく、振り返ることなく(1)

池田理代子(劇画家・声楽家)  ・強く美しく、振り返ることなく(1)
漫画家デビューから50年の節目を迎えた池田さん、代表作「ベルサイユのばら」を宝塚歌劇団での上演やアニメーション放送などさまざまに展開され、ヨーロッパやアジアなど海外の国々を含め高い評価を受けて居ます。
その後もロシア革命前後のヨーロッパを舞台にした「オルフェウスの窓」、フランス皇帝ナポレオン「栄光のナポレオン-エロイカ」、ロシアの女帝エカチェリーナ2世など華麗な歴史ロマンを次々に発表してきました。
漫画家デビューした学生時代、漫画を取り巻く環境の変化などを第一回は伺います。

50周年、過去の作品は恥ずかしくてなるべく見たくない感じで、目を落として歩いていました。
人生って短いなあと言うのが実感です。
やりたいことがあっても年齢とか、身体の衰えとか、待ってくれないのでやれるうちにやっておかないといけないと言うのが実感です、このことを若い人に伝えたい。
やりたいことをやらなかったら悔いが残ると思います。
長い間自分の中でやりたいと思っていたことを、やれるチャンスが巡って来る時はあるんです。
音楽は子供のころからの夢でした。
37歳で旧西ドイツにホームステーして語学学校に留学したんですが、ずーっといつかやりたいと思っていたことで、いまではないかなあと言う時があります、それを逃さないと言うことが大事だと思います。
子供が出来なくて、不妊治療をしていましたが出来なくて、辛い日々を過ごしましたが、或る時諦めて子供のいない人生を選んだ時から人生はころっと変わるんです。

小さい時から将来ものを作る人、物を書く人、表現したいと言うことがあって、いろいろ思いましたが、たまたま19歳のときに漫画家になることになったと言うめぐりあわせです。
小説家になりたかったので書いて文学賞に応募したりしたが、選に漏れてしまいました。
物ごころつく頃から道路に絵を書いたりしていました。
母は専業主婦だったが、戦争中に青春時代を過ごしたので、キャリアーウーマンになりたかったと言っていました。
これからの女性は男の人に頼るようではだめで、自分で生きていきなさいと、もの心ついた頃から母に言われました。
結婚すると言うことは、一人が夫も妻も二人分稼げてこそ結婚の資格があると思うんです、何時相手が病気になるかもしれない、亡くなるかもしれないので、お互いが相手の分も稼げてこそ結婚の資格があると思います。

父は典型的な昭和の男だったので、女に学問はいらないと言われました。
大学に行くなら国立大学、学費は1年間だけ、浪人は許さないと言われました。
教育大学(筑波大学)に入ることが出来て、哲学だったんですが、哲学体系などを勉強するんではなくて、自分が何かを作りたかった、ちょっと違うと思いました。
純学問をやりたかった。
哲学の原書を読むためにギリシャ語、ドイツ語、中国語もやりました。
ドイツ語を喋りたいと思って、ドイツへの留学に繋がって行く訳です。
物を作る人になりたかったと言うことが諦められなくて、学生運動が激しかった時代で、親のすねをかじりながら社会、大人を批判するのはいけないと思ってしまって、置手紙をして自立しますと言って家をでました。
私たちの世代は国家権力に抵抗しても空しいんだなあと言う敗北感を抱えて社会に出たと思います、自分自身もそうだと思いました。

革命、原水爆に反対する、いじめとかの問題、社会問題に目が向いてゆくきっかけをそこで(学生運動の時代)勉強させてもらったと思います。
家出していろいろ仕事をしましたが、人と一緒に何かすることが苦手だなあと判って、家に閉じこもってする仕事、小説家、漫画を書くことしかできないと思って、漫画だと思いました。
或る出版社を紹介してもらって、200ページ以上の物を好きに書かせてもらえると言う訓練をさせてもらって、貴重な体験でした。
1冊書いて2万3000円でしたが、生活はギリギリで時々パチンコで稼ぎました。
宿代6000円、授業料は1000円で、学生食堂で3食食べて過ごしました。
自分で衣服を買うお金もなく、知り合いの母親がファッションモデルの人とかが住んでいる管理人で、色んな服をお下がりで貰って、当時としては最先端の洋服を着ることができました。

21歳のときに、雑誌デビューしました。
書きたいものを書けると言う嬉しさはありました。
当時は漫画なんかと言う位置づけだったので、ベルサイユのばらを書いて、新聞、取材を受けたり、TVに出たりして、叩かれました。
子供に害悪を与える諸悪の根源と言うふうに言われて、文学作品のように想像力を養わないと言うふうに言われました。
映画など含めて視覚的なものはだめなんですかと、反論しました。
手塚先生が大変でしょうと言われて、僕の漫画もPTAから取り上げられて、校庭のまん中にうずたかく積み上げられて火を付けられた、だから頑張んなさいと言われました。
「ベルサイユのばら」で子供向けの漫画を書いたつもりだったが大人の方、学校の先生、仕事を持った女性が支持して下さって、読みなさいとむしろおしゃって下さったのは大きかったと思います。

ヨーロッパで認められてからだと思います、日本人の価値観は外国で認められて初めて認めると言うようなところがあるんです。
アニメに対してようやく政府も動き始めました。
日本の漫画がヨーロッパに認められフランスなどは文化予算を付けて漫画文化を育てようと言う取り組みをしています。
うかうかしていると世界に追い抜かれてしまうと言うことはあります。
我々のまいた種が世界中に広がって、向こうに行くと若い人たちも私のところに寄ってきて、私のすべてはベルサイユのばらでできていますとか言ってくれて、人生に影響を与えることができたと思って嬉しいです。
音楽家のボブ・ディランがノーベル文学賞を貰ったように、漫画が近い将来ノーベル賞を貰うのではないかと思っています。