2017年4月21日金曜日

かこ さとし(絵本作家)      ・“生きる力”は子どもたちから(2)

かこ さとし(絵本作家)  ・“生きる力”は子どもたちから(2)
1959年絵本作家としてデビュー。「だむのおじさんたち」
子供たちと毎週日曜日に一緒に遊ぶために、せめてもと思いお話とか、紙芝居などを土曜日に書いていた。
それを見た人が出版社にアルバイトで勤めていたが、出版社に話して、出版社に呼ばれることになりました。
編集長さんにお会いしたら、大きなテーマを考えてほしいと言われました。
感動して、今の時代にふさわしいものと言うことで、復興期だったので造船の事、機械工業とか、化学工業とかがあったが、夕方になると電気量が少なく停電になる。
発電をテーマにしたらいいと思って、編集長さんから電気のことで行きましょうということになりました。
構想を練って、ダムを作ってめでたしめでたしでは面白くないので、山の中で工事に携わる人、廻りの自然などを含めた詩情があふれるような物を作ろうと思いました。
発電と動植物の関係をうまくマッチさせたいと思いました。

童話作家の川崎 大治さんというかたから、日本児童文学会で話題になっているとお話がありました。(30歳ちょっとの頃)
会社の仕事は重要だと思っていたので、会社の仕事を80%ぐらいにして20%を絵本にというような気持は品格に関わりあさましいと思って、仕事を120%やって開き直れるような気持で、土曜の夜は徹夜もして絵本仕事をして、日曜日は子供会をやる、それをやっていました。
それが皮切りになって他の社から注文がありました。
どんなことを書けばいいのか教えてもらったりして、絵本のイロハから教えてもらったりしました。

1974年「美しい絵」出版
前年に会社を辞める。
それまで出版社から言われるままテーマに従って考えて出していました。
一人前の会社員としてやると言う主義があって、休みにゴルフを誘われると一緒に行ってそのしわ寄せが夜の時間帯に来て時間の調整が難しくなり、又管理職にもなってきて研究の仕事から遠のいてきて仕事の面白味も薄れて、絵本の仕事に力を入れようかなあと思った。
収入が減ってしまうが、妻がキャラメル売りの仕事をするとか、子供も大きくなってきたので、家族の支援もあり退職願を出してフリーになることにしました。
新聞で田中首相がモナリザの絵をルーブルから日本に持ち込むと言う話があり、子供向けの絵の本を出したいと各社回ったが、断られてしまいました。
或る一社だけが承諾してくれましたが、最後になってピカソのゲルニカという絵がまとめになるが、ピカソが亡くなって家族が係争中で裁判が決着するまで国外で掲載ことはならんとうことになりました。

子供の教育のために掲載を是非お願いしたいと、許可を願いにフランスまで行こうと決心したら、出版者に電報が入って許可を貰うことができた。
私自身の思っていることを何とか伝わるように、それが子供たちに心に響いてくれればいいと、そういうことで絵を見てほしいと思って、描いた人の心がそこに表れて居るか込められていることが問題なんだと、その思いを紙芝居なんかを描いていたので一冊のものにしました。
若い時に芥川龍之介に熱中して、天才でも歩きながら考えていたと言うことで凡人はしょっちゅう考えてもいいが堂々巡りで、気が付いたときにメモするようにしているが、いいと思っても後で見ると大したことないことが多い。
しかし、これが種本みたいで、段々練って行って文に仕立てて行く。
これがないと全然進んでいかない。
お蔵になっているものが多くて、生きたのは1/100ぐらいです。

子供さんから手紙、感想などをいただくのが宝で50数年間取ってあるが、返事は直ぐ出すようにしていて、続きを描いてほしいと言う要望があり30年過ぎに書き始めて40年後に出版することができました。(「どろぼうがっこう 」続編)
良くないからやめななさいと言ってやめるよりも、自分でやめるようにすることが子供の成長だと思います。
普通の子供はプチ悪の面とプチ良いの面があって葛藤しながら自分で磨いてゆく、磨いてゆくことがいいところなんです。
好きなものを選んで、読書の大事さを知ってもらえれば一番いい。
自然界からいろんなものを教わったような気がする。
家の中で本だけで過ごすよりも、本も読むけれども外で遊ぶようにしてもらった方がいいのではないか。
本を読む間接経験よりも直接経験の積み重ねがとても役に立つ。

子供は読んだもの、経験したものなどで琴線に触れるものがあったならばそれを追求してて行動として表す、行動に出ると言うことが素晴らしいこと。
子供の理解出来る文章、絵、図なりで、理解出来ると言うところに入れてあげるとOKです。
20年間、役に立つと見越して書かないといけない。
せっかく生まれてきたので何かお返ししていかなければ申し訳ない、それだけです。
生き甲斐を20年間失っていたのを、後の70年間を楽しく、色んなことを教えてもらって、
こんなことをやってきたということを残していきたい。
テロだとか、内戦だとか、人と人の争いがあり非生産的な状態が途切れない、人間の社会として克服出来るようにしてほしい、しなければいけない。
ノートに書き記したものを1つでも2つでも、元気なうちに皆さんにお渡しできればと思っている。